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時事問題 : WHO AM I ?  私は誰だ。
投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-21 (944 ヒット)
電車の中吊り広告に、日本はアンダークラス900万人という記事が載り、一億総中流と、少なくとも表面上ではそのように言われた時代が終わり、また 都心のコンビニ、介護施設、飲食店などあらゆるところに、外国人従業員があふれ、人々は高齢者が増える世の中になりました。
 世の中が下流化して来たとの実感は、例えば、刑事事件をやるときには、無銭飲食(食い逃げ)、万引きで刑務所を行ったり来たりする人の前科の数の多さを見た時しょうか。小説やテレビドラマでも、前科が複数つくと、また10を超えると、それだけ聞くだけで凶悪犯のように思われるがちですが、極端に前科が多い場合には、むしろわずか数百円の「食い逃げ」「万引き」をして逮捕を繰り返している人が多いのが現実です。
 とにもかくにも、何らかの形で、貧困か、病気により、少子化のため(本来であれば、兄弟、親族がフォローしていたものが、数代にわたる少子化の影響で、親戚が激減しフォローする者がいない)、またムラ社会の消滅により地域で面倒を見ることがなくなり、当事者が社会で孤立し、なんとか自立しようにもできず、最悪犯罪に走るという悪循環は、結構見られます。
 一旦、そういうことに手を染めると後は同じで、更に孤立を深め、何回か警察にやっかいになることを繰り返し、刑務所を出たり入ったりになるパターンとなります。
 初犯の万引きの担当になると、金額がわずか千円でも万引きを軽々に考えてはならないと、身近にあるこわい話として軽犯罪を何回も繰り返す怖さを切々と語ることにしています。

 表題は、ああ無情、あるいはレミゼラブルの主人公Jean Valjeanが歌う題名から取りました。
 ご存じの方も多いと思いますが、Jean Valjeanは、パンを1本盗んだだけで、刑務所送りとなり、自分は監獄の中で番号で呼ばれ、人扱いをされなかった(これは、一応理由があり番号で呼び合うことで、社会に戻った時に、刑務所内の関係を引きずらないためなどと、日本では言われます)、ちゃんとした名前のある人なんだと高らかに歌うわけです。
 翻って、弁護士として感じる違和感は、ここにあります。
 日本でも、1万円の万引きでも、状況によっては、数年刑務所に入ります。具体的には、窃盗の累犯加重があると2倍の法定刑に、前科が3犯ある常習累犯窃盗となると実刑3年以上が法定刑です。
 つまり、1万円の万引きを一定期間に3回続けて検挙されたら、刑務所行き3年が現実になるのです。「1万円の窃盗で、刑務所3年。しかも再犯率が高い」という現実は、社会に以下の課題を突きつけていると思います。

まずは、
1 普通に働けば普通の生活ができる給与が得られる社会の実現 
 ・・・これは共働きという前提でももちろんいいわけですが、社会として成立するための必須条件と思います

2 何らかの理由で普通に生活できず貧困に陥った場合の、更生システム
・・・新卒でなく中途であっても、新たに適性のある職業を見つけ、就業に向けた職業訓練の機会の提供を拡大させるのも一案だと思います。
・・・最初の万引き、食い逃げは貧困初期に多いように感じます。現実問題として、小売業は、アマゾンなど物販通販取扱い量の急拡大により、売上げが圧迫されていると言われます。今までは、それでも小売店の売上げでカバーできていたものが、少子化による購入者の減少と消費者の買い物行動の変化により、売上げが減少し、万引きを見逃せなくなった現実を、きちんと理解してもらうことが必要なのだと思います。該当対象者に対し事前抑止力としての社会構造の周知も必要なのでしょう。
 また、その一歩手前の対策としての、何らかの理由で生活するに足る給与が得られなくなった場合の、一時的なセイフティネットの構築も必要なのだと思います。弁護士の場合には所得補償保険なるものもあります。具体的には、失業保険の対象者拡大と、一時的な生活保護の実現が現実的実践的な施策なのかも知れません。

3 刑務所は、数百円、数千円の被害犯罪のための施設ではないという意味で、万引き、食い逃げの更生プログラムの実施 
  レミゼラブルではないですが、万引き前科者だろうと市長になれる才能能力があるかも知れません。1回の転落でその後の人生、ずっと、人並みの生活が送れず、結果同じように再犯するというのは、本人の資質だけでなく、社会が復活制度を認めていないからだということになります。前科がつくことの社会的インパクトを無視できないので、前科とは別扱いで更生させるプログラムを推奨したいところです。
 もちろん、集団万引き等、窃盗団に近い組織犯罪は別です。

 戦後導入されたアメリカのchapter12(破産免責制度)は賛否両論ありましたが今では当たり前の制度になっています。少子化、高齢化、国際化は、有限の人材を適材適所で活用しなければならない社会への変革を必要としています。
  
 余談ですが、昨年久しぶりにチケット代金を支払ってコンサートに行きました。
久しぶりに行くと、ホールの響き・音響のことが気になったり(高校生のころ、近くの市民ホールを使用した際にその装置の使用の有無による音の響きについて、えらく感動していた同級生がいてそこまで感動するものかと疑問に思っていたのですが、この年になり音響設計の価値が少しわかった気がします)、楽器も声楽もソリストが自分の音の響きが最高点になるように演奏するので、とかく乱れがちな合奏を、地味につなぎ合わせている人の努力に感心したり、別の楽しみ方ができるようになりました。
 海外と日本ではクラッシックの考え方は、共通なのですが、合唱については、完全に異なると個人的には考えています。合唱は、欧米では聖歌隊を起源の場合には静謐な演奏をする合唱が主流のようで、これは演奏場所として教会などを想定することも理由かも知れません。
つまり、教会などでは賛美歌に合わせ、音の響きを設計するので、大音量だったりテンポが速かったりすると、反響音が邪魔をして雑然とした音の集合体となってしまいます。そのため、日本のように、叙情あふれたダイナミックな演奏を想定した合唱曲が少ないのではないかと考えます。
 都内近郊の演奏会場に行くとあまり気にならないのですが(これについては、バブル時代の建築の音響設計の質の高さを感じます)、演奏用に作られた会場ではないところで、演奏する場合には、指揮者はまず音の反響を考えてテンポ、音量を決めて指揮棒をふると、ある機会に指揮者の先生が話されたのを聞き、なるほどと感心しました。
 欧米の合唱曲で、例外的にダイナミックに歌い上げるのは、第9とハレルヤだと思っていますが、先日久しぶり合唱を聴き、なつかしく思い出しました。

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