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投稿者 : admin 投稿日時: 2018-11-25 (1065 ヒット)
 ゴーン氏らの逮捕と解任事件は、衝撃的でしたが、意のままに操れる後任者を代表取締役に据えて、その代表取締役を会社代表として会社相手にむちゃな契約をするが、自らは株式支配率からすれば親会社である会社の代表取締役の地位に収まってしまっているからから誰にも文句を言わせないし言われない環境になっている。単純かつ鉄壁な方法ではあります。毎年の契約の書換えは報酬債権の短期消滅時効の回避なのでしょう。
 金額が二桁少ないのであれば、会社の創業一族の二代目、三代目がしでかす、無茶ぶりとして日本でも存在しますが、金額の桁も立場も違います。
また、この人たちの場合には、本社跡の銀座の一等地を売却するだけでなく、相当な人数の解雇をし、更には必要な人員配置までコストカットして、形式上の「利益」を出し、最近は検査不正まで出てきたわけですから、当時会社を去らなければならなくなった人たちの無念さ、また大幅人員削減により尋常でない多忙さの中で働かなければならなかった従業員作業員の人たちの無念さを考えれば、やってられないというのが感想でしょうか。

 聞くところによれば、ヨーロッパでは、EU統合等による市場規模の拡大により、会社規模も拡大し、それとともに経営陣の高額報酬が当たり前になっており、いわば冨の独占が容認されている状況になりつつあるようですが、今一度、なぜ、過去にフランス革命という市民蜂起が起きたのか、自ら問いただすべき時期に来ているような気がします。アメリカ独立戦争からの飛び火だけが原因ではありません。
 最近シャンゼリゼ通りで焼き討ちがあったようですが、貧富の格差の是正の放置は、いずれその富裕層に対する高い代償として跳ね返ってくるのは過去の歴史が語っています。

 今更言っても詮無きことですが、経営陣が利益の独占をして労働者への還元をしないどころか、経営陣(1人2人の問題ではない)放漫な報酬の取得、実態のない雇用にかけるコストこそ、コストカットすべきとの判断をしないようであれば、それは、日本だけでなく、ヨーロッパであっても、いい経営者とは言えません。

 日産従業員、あるいは過去に日産従業員だった方々の無念を考えれば、日本であれば桁違いの金額と内容で、目を疑った今回の状況を、もっと早く是正して欲しかったと思います。

 ともあれ、ブルーバードはいなかった(製造中止)わけです。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-11-12 (991 ヒット)
さて、先日、韓国の最高裁が、徴用工及びその遺族からの請求を認容する判決を下し、本日、韓国人から来日したとのニュースがあり、おじいさんのプラカードを持った「若い人々」が道路を行進している写真記事が掲載されました。
 気になったのは、普通の韓国の若者が何のためらいもなく日本にやってきて、これをしたことです。ざっと70年前の話ですから当事者は少なくとも85歳以上で、この人たちは孫か孫世代に当たる方です。

 弁護士という仕事柄、常に自分と同じと考えるのではなく、なるべく相手と同じ土俵で物事を考えるようにしていますが、同じ土俵に立ち得ないものというのは大変扱いが難しいです。

 明治民法の家長制度が改正されたのもつい数十年前の韓国ではありますが、戦前の民法でも時効はあったし、そもそも除斥期間があるし、不法行為法は関係ないしと考えると、戦時という一言で、何でも許容されてしまう、韓国のあからさまな超法規的措置が、本当に嫌だなと思うだけでなく、一見同じような法制度を持ちつつ、実は同じ土俵にいつまでも立てない、またそれを何とも感じない、韓国の若者世代に怖さを感じます。
 70年前のことに孫の世代が、当たり前のようにプラカードを持って来日して70年以上前の債権請求をする一方で、農産物では、日本産の新品種をどんどん自国で栽培し、開発費なしに、勝手に取り入れ、当たり前のように扱う。
 
 この奇妙な現象は、伝統ある漢字教育がなくなり、(どこに根拠があるのか知りませんが)「市民のための文字」と言われるハングルが幅をきかせ、言語的に戦前と戦後に明白な分断ができ、戦前の理解がないためもあるでしょうし、日本より強烈と言われる学歴競争社会の中で何か忘れたものが多いせいなのかも知れないし、歴史的に1000年以上の長きにわたり継続して属国支配を受けてきた民族性、お国柄なのかも知れませんが、隣国ゆえに、関係が切れないこともあり、今後も含め、先は厳しいなと思います。
 
 ずいぶん前のことではありますが、ある金融機関が親の債務を子に対して請求した裁判で、子の代理人で法廷に立った際に、「まるで(末代まで債務を負わなければならなかった)江戸時代のようだ」と言ったら、裁判官にすかさず「言い過ぎだ」とたしなめられたことがありますが(もちろん、言い過ぎだと理解しての発言)、70年以上前の出来事を何の違和感なく、普通に来日して行動するこの感覚が正直怖いと思いました。

 韓国政府が正常に機能しているのであれば、慰安婦問題もそうですが、徴用工問題も、韓国政府が主体性をもって救済法を制定し(過去に韓国で、特定の人々を対象に日本統治下での不動産所有権を否定する特例法を作って所有権を否定したのと同様の考え方です。)、韓国政府が既に受け取った多額の戦後賠償金を、今こそ韓国国民の救済に使うべきなのですが、慰安婦問題ですらこれができずに政権交代となった韓国ですから、慎重に世論を醸造し、機を熟して対応する他ないのでしょうが、果たしてムン氏にこれができるのでしょうか。

 世界的に通用している法理論を、広く韓国国民に周知徹底させるのは、中進国から抜け出たばかりの韓国には難しいのかも知れませんが、この対応ができなければ、そもそも正しい意味での法治国家とは言えません。
 
2018.12.06補足
 日本国内では韓国に対しあまり差別意識はなく、LINEがわざわさ「LINEは韓国の会社ではなく、日本で上場した会社です」と宣伝することに、資本が韓国というだけでなく韓国色が強い会社と逆に感じる程度です。
 そろそろ、韓国も、普通の国の、普通の法的対応を取れる国になって欲しいと考えます。既に解決済みの事柄について、常識的にあり得ない理屈で認容しても、国際的には通用しないし通用させられないことと単純に考えてもわかるはずなのですが。

2018.01.06補足
 とうとう韓国の裁判所が差押手続を認めたとのネット記事が出ました。あーあという感じで、理不尽かつ理不尽この上ない話です。
 きっと、差押裁判所は「判決が出た以上は・・・」と自己を正当化し、執行側は「判決が出た以上は・・・」と開き直り、判決した裁判所は「世論と政権に沿うとこうなる」という自己正当化をするのでしょう。

 韓国では、国家と個人は別との考え方であれば、敗戦時に韓国に残してきた日本人の個人資産の返還請求や、敗戦色が濃くなったどさくさの時期になぜか亡くなった方や、「どこぞ」に売られてしまった日本人の損害賠償請求が認められるのでしょうか。韓国国内限りでは、フェアになるのでしょうか。

 あるいは、今回の判決、差押そのものが違法として損害賠償請求をして、差押えをした個人、若しくは韓国政府に対し、同額の請求権を認め、日本国内や韓国内の資産の差押えを図れたりするのでしょうか。
 あるいは、今回同様の政策的配慮から、日本国内の朝鮮学校、韓国学校を始めとする、朝鮮人に対する日本国内の暗黙の便宜を撤廃できるのでしょうか(実質的な便宜撤廃でも、経済効果からすれば、かなりの金額の回収にはなりそうです)。
 
 同一の国内法であれば、必ず既判力の壁があるので、このようなことは検討の余地もありませんが、時効の明白な問題があり、またそもそも事実誤認の疑問が残る判決に基づく執行ですから、検討の余地もあるかも知れません。そうすると、韓国政府や韓国人の日本国内資産の差押えの余地もでてくるのかも知れません。

 もちろん、基本的にはまかり通らない議論なのですが、前提となる判決にここまで問題があると、このような問題提起の余地もありそうです。

2019.08.04補足
 日韓関係が手詰まりの中、元徴用工問題の解決は糸口を、ムン氏は見つけることはできないのでしょうか。

 74年以上前の問題をほじくり返しての問題に端を発しているわけですから、韓国国内においても、他の問題でなければあり得ない問題です。
 国内法の制定により、この問題を解決するしかないのに、なぜ、これができないのか。
 今の韓国と北朝鮮の異なるところは、曲がりなりにも平和的に周辺諸国と関係を続けてきたことだと思いますし、この74年間で、南と北の国の発展具合を見てわかるとおり、今後の東アジア情勢を考えても、諸国と微妙な距離をとり続ける必要性は、韓国も同じだと思います。
 公衆衛生の未発達により、回虫罹患率が異常に高いという状況は今の韓国にはないはずです。
8月15日を前にして、敗戦国だからと言われても、何でも要求できるということではありません。
 国際問題は、韓国という一つの国家に対して対応するもので、それは統一的になされます。
 確かに韓国内では政権が変わるごとに国家元首の逮捕者や自殺者(もっともこの方の場合、娘さんが新興の有名財閥のトップの妻とのことで、色々あったのかも知れません。)を出し、前政権の施策、合意がいとも簡単に覆され、幻のゴールポスト状態が頻繁に垣間見られる国ですが、当該賠償金を貰っておいて、再請求するのはどうなのか、それは、国家間の合意により支払いを受けた韓国政府にすべきであり、韓国政府が国内法を制定して、国内法として対応すべきだというのは、当然のことであると思います。
 裁判所が、賠償請求の蒸し返しではないと堂々と判断するのでは、一体これは何だと思うだけでなく、他山の石、あるいは反面教師として、我が国の司法はこうあってはならないと願います。

2020.08.03補足
 とうとう韓国国内での公示送達の手続きがなされたとのことですが、結局ムン氏は決断できないのでしょうか。

 批判のための批判を繰り返すばかりか、おばあさんたちのお金まで流用した渦中の慰安婦団体の代議士と同様に、一旦解決した賠償金問題を再燃させるようでは国家として信用に値するのでしょうか。
 何のための賠償金だったのか。全く理解できません。

 先日の炭鉱跡の施設の展示をめぐる韓国の批判もそうですが、独善的価値観と想像の世界(80年あまり前の炭鉱技術が現在と同じと思っているのだろうし、現在に匹敵するほど豊かだったと思っているとしか考えられない。当時の経済水準が圧倒的に低かったことを無視している。)を前提にした批判である点、いつものことだなと思うと同時に、炭鉱というものがどうだったのか、改めて、問い直したいところです。
 
 一般論で考えても、海底炭鉱など地盤が決して堅固ではない炭鉱の炭坑夫は、連携が強固な、集団行動ができなければ、落盤の危機、生命の危機に陥ります。集団行動に組み込めないような人(人々)を多数組み込むことはできないはずですし、普通に考えればそんな選択肢はまず取れないと思うのですが、なぜ、朝鮮人だけを酷使させたことになるのでしょうか。
 また、戦争末期で、本土空襲により、多数の人が死んでいった中で、日本から戻ってこなかったからと言って、なぜそれが虐待の証になるのでしょうか。
 
 この問題がこじれてから、ずいぶん経過しています。
 今こそ、ムン氏は、国内問題として、過去に獲得した賠償金の中から、処理・解決すべき段階に来ています。


2020.8.29補足
 今年も9月1日(関東大震災のあった日)が近づいてきました。関東大震災下であった朝鮮人が多数虐殺されたとの出来事について問題にしたいと思います。

関東大震災朝鮮人虐殺事件というのは、私が学生のころには教科書にも載っておらず、話題になりませんでした。
一回り以上若い世代の人は、井戸に毒が投げ込まれたとのデマが流れて多数の朝鮮半島出身者が虐殺されたと教えられるのだそうです。

しかし、ここで疑問なのは
1 江戸時代から水道が普及し、大正時代の終わりであれば、東京市では水道普及率も高かったはずなのに、誰が飲料用に井戸を使用するのか
  なお、地震により一時的に水道が寸断されても、水道は災害時のライフライン復旧でも最優先に扱われるので、長期間水道が使えなかったとは考えられません。
2 東京市以外でも大正の終わりであれば、井戸の開口部が密閉された手押しポンプが普及していたはずで(つるべ井戸ではない。なお現在は電動汲み上げポンプ。)、毒を入れるのも簡単ではないし、しかも、郊外であれば井戸は民家の敷地の中にあるから、被害がそれほど大きくなかった郊外の民家に押し入り(単独犯ならばともかく)朝鮮半島出身者が集団で井戸に毒を投げ入れたというデマが集団心理として醸造され得るのか、奇想天外すぎないか
3 阪神淡路大震災を経験した者の実感として、地震は、建物が建物が古かったり簡易な造りであれば、より倒壊しやすく、更に関東大震災では、東京市で何カ所も大火災が発生したことからすれば、建物が倒壊した住宅密集地の被害が甚大だったことは確かで、いくら一時的に無政府状態になったとしても、大地震の後、また周囲で数万人もの死者が出て、家を焼け出され、自分達の生活再建だけで精一杯の時期に、精神的体力的にそこまでの気力があるのか。

 本当に井戸のデマがあったのか、百人単位の多数のという部分に、疑問を感じます。
 
 日本の近代史で、しばしば死者を伴う流血事件が起きるのは、土地をめぐる争議です。大正デモクラシー(民主化が広く行き渡り、労働者の意識が目覚める)以降は労働争議が加わります。
 移民(いわゆる、よそ者。大正の終わりでも、人の移動が多くないので、よそ者の定義は今よりずっと狭義で同郷ではない者をいう。)排斥意識は程度の差こそあれ、日本でも見られますが、多数(10名以上)の死者を出す騒動になったことがあるかと言えば、私は寡聞にして聞きません。
 火のない所に煙は立たないと言いますから、虐殺が全くなかったとは断定しませんが、これも釈然としません。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-10-08 (893 ヒット)
今年は、天災が続きました。1000年前の我が国の中世平安時代であれば、祟りと怖れられ、日本各地で不遇の最期を遂げた高名な人物を祀るラッシュが到来したのかも知れませんが(菅原道真公などはその典型です)、今は、気象現象とドライに捉え、一層の分析と予測が求められますが、昭和世代ゆえ、機械の分析だけでは説明のつかないことも多いのではと考えたり、考えなかったり。結論的として天災が鎮まってくれればそれでいいと思うのは、人の性ですね。

 今夏は東京国立博物館で、縄文展をやっていました(全国巡回あり)。私の育ったところは、縄文時代に海岸線があった下総台地の端にあったので、貝塚が学区内にあり、そこに行って地面を探せば、縄目の破片が見つかる程度に、縄文遺跡が身近にあり、近くの市立博物館には立派な縄文・弥生土器(弥生土器もあった記憶があります。方墳も手賀沼の付近にある)が小学生の頃は歴史学者になりたいと思ったことを懐かしく思い出しました。
長じるにつれ、手作りの縄文土器とは違う、一般仕様に量産される弥生土器の価値を知り、遺跡調査とは支配層の墓堀りに過ぎず、庶民の痕跡は結局、ゴミ捨て場(貝塚もどちらかと言えば、こちらです)か文献の中にしか存在しないと理解し、文献調査に興味を覚えたのは、高校生になった頃でしょうか。
 その後大学は法学部に入り、司法試験をめざし、いろいろ悩みつつ弁護士になり今に至っています。
 「人間、中身で勝負するもの」と本気で信じていたのは、全く、若さの至りです。それがよかったのか悪かったのか。

 縄文展に行ったついでに常設展を見て、久しぶりに高村光雲の「老猿」を見ました。
 同じく東京国立博物館所蔵で高村光太郎の「手」もいいですが、日本の彫刻で個人的に一番気に入っているのが、老猿です。木の特徴を十二分に生かした彫刻で、小柄のニホンザルの挑戦的な輝きのある顔つきがいいです。10代の終わりから20代の頃は、常設展の入り口付近にいつも置いてあったのでよく見に行き、元気を貰いました。
私にとっては、高村光雲の老猿は、ルーブル美術館のニケと、ミケランジェロのピエタと並び、お気に入りの彫刻です。

 アルバイトではない給料を貰うようになったのは司法修習生になった25歳からなので、社会人となったのは遅かったのですが、反面、この年まで仕事を続けられているですから、結果オーライということでしょうか。ともあれ、無理がきかない年齢になり、情熱とやる気しかなかった、若い頃が懐かしくなります。
 我が身を思えば、若さゆえ、希望をもってやる気に満ち、無理してでも何でもこなしたわけですが、我が身を離れると、子どもは早く自立して自分一人でなんとか働いて生活できるようになってもらう必要はありますが、それが満たせれば、最低限は満たせたかなと考えます。
 もっとも、この「独り立ちして自活できる」というのは、その期間を長く設定すればするほど、簡単なものではありません。
 
 若者に助言するにも、なかなか、悩みは尽きません。

 老猿を眺めながら、若い頃を思い出しつつ、老いて尚輝く感じを、別の角度から眺めるようになりました。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-30 (918 ヒット)
 朝鮮半島南北国家の首脳会談はようやく実現というところでしょうか。
 政治のことはさておき、これで北朝鮮の経済が改善すれば、喜ばしいことです。
 韓国は、本音を言えば、日本より遙かに男尊女卑の国ですから、女性の前国家元首に収賄で懲役24年にしてあからさまな保守勢力への嫌がらせをし、せっかく東アジア初の女性国家元首が誕生した国の誇りをどこかに消してしまい、またムン氏の革新系のライバルはハニートラップで蹴落とされ、現在独走状態にあるムン氏のやりたい放題は、一体どこにいくのか、という感じですが、後で、手痛いしっぺ返しが来るとは考えないのでしょうね。
 韓国は前政権の合意を破り、売春であるはずの従軍慰安婦の、「従軍」だけが一人歩きして、従軍慰安婦の銅像を世界に増殖させるのを止めようとしません。竹島に至っては、へ理屈が通らないとわかったからか、所詮デザートではありますが、やたら意味のない国際的アピールを強めていますし。
 
 しかし、だからと言って、北朝鮮の国民に罪はありません。国軍の兵士の回虫の罹患率の高さや、ワカサギ釣りよろしく厚く張った川の氷を一部割ってまで川で洗濯する北朝鮮の国民の写真を見ると、「おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行った」という昔話の一節や、NHKドラマ「おしん」の幼少期を想像させ(衛生面から衣類の洗濯は推奨されますが、川で洗濯したのは日本ではせいぜい昭和初期までです。)、2018年の東アジアにあってこれでいいのかと、また、川で洗濯するそういう親子の顔つきが何気に目が大きかったりするので、より同情を引き(日本人はどちらかと言えば朝鮮人より目が大きい人が多い)、この国は何やっているのかと考えてしまいます。
 東アジアにおける、民主化が進まない現状の中国の影響力拡大を歓迎するものではなく、勢力均衡が望ましい中で朝鮮半島の勢力図が変化することを臨むわけではありませんが、それでも、これで北朝鮮の来年の餓死者が少しは減るのであれば(川で洗濯をする水道の復旧状況からすれば、社会インフラは日本の昭和初期程度で、今の北朝鮮の経済状態、衛生状態からすれば毎年一定程度の死者が出ることは当然に想定されます)、平和的に関係が改善されることを期待します。
 
 今年は、年齢的には知命を迎えるので、般若心経の写経でもやろうかなと考えているところです。
 般若心経は、いろいろ解釈がありますが、私個人としては、あまり深く考えず、漢文の言葉通り(音として捉えるのではなく)、文字の通りに読んで解釈をするのが一番しっくりきます。無我の境地を語ったもの等、高尚な解釈はいろいろあるでしょうが、ちょっと斜に構えたウィットに富んだ内容とも読み取れます。
この解釈に出てくる、何事も完全は実現できず、多少のぶれがあってこそ、理想的な完全が実現できるということは、このアジアの情勢にしっくりくると思います。
 結局のところ、自己顕示欲がやや強く緊張感が緩い国にはあまり期待せず、むしろ、緩いという前提で臨機応変に対応しながら、周辺に緊張感を保ちつつ、うまく渡っていくしかないのでしょう。

投稿者 : admin 投稿日時: 2018-04-21 (943 ヒット)
電車の中吊り広告に、日本はアンダークラス900万人という記事が載り、一億総中流と、少なくとも表面上ではそのように言われた時代が終わり、また 都心のコンビニ、介護施設、飲食店などあらゆるところに、外国人従業員があふれ、人々は高齢者が増える世の中になりました。
 世の中が下流化して来たとの実感は、例えば、刑事事件をやるときには、無銭飲食(食い逃げ)、万引きで刑務所を行ったり来たりする人の前科の数の多さを見た時しょうか。小説やテレビドラマでも、前科が複数つくと、また10を超えると、それだけ聞くだけで凶悪犯のように思われるがちですが、極端に前科が多い場合には、むしろわずか数百円の「食い逃げ」「万引き」をして逮捕を繰り返している人が多いのが現実です。
 とにもかくにも、何らかの形で、貧困か、病気により、少子化のため(本来であれば、兄弟、親族がフォローしていたものが、数代にわたる少子化の影響で、親戚が激減しフォローする者がいない)、またムラ社会の消滅により地域で面倒を見ることがなくなり、当事者が社会で孤立し、なんとか自立しようにもできず、最悪犯罪に走るという悪循環は、結構見られます。
 一旦、そういうことに手を染めると後は同じで、更に孤立を深め、何回か警察にやっかいになることを繰り返し、刑務所を出たり入ったりになるパターンとなります。
 初犯の万引きの担当になると、金額がわずか千円でも万引きを軽々に考えてはならないと、身近にあるこわい話として軽犯罪を何回も繰り返す怖さを切々と語ることにしています。

 表題は、ああ無情、あるいはレミゼラブルの主人公Jean Valjeanが歌う題名から取りました。
 ご存じの方も多いと思いますが、Jean Valjeanは、パンを1本盗んだだけで、刑務所送りとなり、自分は監獄の中で番号で呼ばれ、人扱いをされなかった(これは、一応理由があり番号で呼び合うことで、社会に戻った時に、刑務所内の関係を引きずらないためなどと、日本では言われます)、ちゃんとした名前のある人なんだと高らかに歌うわけです。
 翻って、弁護士として感じる違和感は、ここにあります。
 日本でも、1万円の万引きでも、状況によっては、数年刑務所に入ります。具体的には、窃盗の累犯加重があると2倍の法定刑に、前科が3犯ある常習累犯窃盗となると実刑3年以上が法定刑です。
 つまり、1万円の万引きを一定期間に3回続けて検挙されたら、刑務所行き3年が現実になるのです。「1万円の窃盗で、刑務所3年。しかも再犯率が高い」という現実は、社会に以下の課題を突きつけていると思います。

まずは、
1 普通に働けば普通の生活ができる給与が得られる社会の実現 
 ・・・これは共働きという前提でももちろんいいわけですが、社会として成立するための必須条件と思います

2 何らかの理由で普通に生活できず貧困に陥った場合の、更生システム
・・・新卒でなく中途であっても、新たに適性のある職業を見つけ、就業に向けた職業訓練の機会の提供を拡大させるのも一案だと思います。
・・・最初の万引き、食い逃げは貧困初期に多いように感じます。現実問題として、小売業は、アマゾンなど物販通販取扱い量の急拡大により、売上げが圧迫されていると言われます。今までは、それでも小売店の売上げでカバーできていたものが、少子化による購入者の減少と消費者の買い物行動の変化により、売上げが減少し、万引きを見逃せなくなった現実を、きちんと理解してもらうことが必要なのだと思います。該当対象者に対し事前抑止力としての社会構造の周知も必要なのでしょう。
 また、その一歩手前の対策としての、何らかの理由で生活するに足る給与が得られなくなった場合の、一時的なセイフティネットの構築も必要なのだと思います。弁護士の場合には所得補償保険なるものもあります。具体的には、失業保険の対象者拡大と、一時的な生活保護の実現が現実的実践的な施策なのかも知れません。

3 刑務所は、数百円、数千円の被害犯罪のための施設ではないという意味で、万引き、食い逃げの更生プログラムの実施 
  レミゼラブルではないですが、万引き前科者だろうと市長になれる才能能力があるかも知れません。1回の転落でその後の人生、ずっと、人並みの生活が送れず、結果同じように再犯するというのは、本人の資質だけでなく、社会が復活制度を認めていないからだということになります。前科がつくことの社会的インパクトを無視できないので、前科とは別扱いで更生させるプログラムを推奨したいところです。
 もちろん、集団万引き等、窃盗団に近い組織犯罪は別です。

 戦後導入されたアメリカのchapter12(破産免責制度)は賛否両論ありましたが今では当たり前の制度になっています。少子化、高齢化、国際化は、有限の人材を適材適所で活用しなければならない社会への変革を必要としています。
  
 余談ですが、昨年久しぶりにチケット代金を支払ってコンサートに行きました。
久しぶりに行くと、ホールの響き・音響のことが気になったり(高校生のころ、近くの市民ホールを使用した際にその装置の使用の有無による音の響きについて、えらく感動していた同級生がいてそこまで感動するものかと疑問に思っていたのですが、この年になり音響設計の価値が少しわかった気がします)、楽器も声楽もソリストが自分の音の響きが最高点になるように演奏するので、とかく乱れがちな合奏を、地味につなぎ合わせている人の努力に感心したり、別の楽しみ方ができるようになりました。
 海外と日本ではクラッシックの考え方は、共通なのですが、合唱については、完全に異なると個人的には考えています。合唱は、欧米では聖歌隊を起源の場合には静謐な演奏をする合唱が主流のようで、これは演奏場所として教会などを想定することも理由かも知れません。
つまり、教会などでは賛美歌に合わせ、音の響きを設計するので、大音量だったりテンポが速かったりすると、反響音が邪魔をして雑然とした音の集合体となってしまいます。そのため、日本のように、叙情あふれたダイナミックな演奏を想定した合唱曲が少ないのではないかと考えます。
 都内近郊の演奏会場に行くとあまり気にならないのですが(これについては、バブル時代の建築の音響設計の質の高さを感じます)、演奏用に作られた会場ではないところで、演奏する場合には、指揮者はまず音の反響を考えてテンポ、音量を決めて指揮棒をふると、ある機会に指揮者の先生が話されたのを聞き、なるほどと感心しました。
 欧米の合唱曲で、例外的にダイナミックに歌い上げるのは、第9とハレルヤだと思っていますが、先日久しぶり合唱を聴き、なつかしく思い出しました。

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