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日常問題 : いろはうた から環境問題を考える
日本文学の最高傑作の一つと言えば、1000年以上前に作られたとされる、いろは歌が挙げられます。
色は匂えど 散りぬるを いろはにほへと ちりぬるを
我が代 誰そ 常ならむ わかよ たれそ つねならむ
有為の奥山 今日越えて うゐのおくやま けふこえて
浅き夢見し 酔ひもせず あさきゆめみし ゑひもせす
作者不明の僧侶が作ったと言われていますが、いろは歌の、他に例を見ない優れたところは、日本語の音を全部1回ずつ使用して、響きのきれいな日本語を配列し、意味のある歌を作り上げたことです。
歴史的には、長い間、日本語の文字を初めて覚える際に利用されたので、いろは歌の意味は知らないが、誰もがこの歌を知っているという不思議な現象が起きました。
この歌の解釈には諸説あるようですが、個人的には、まだまだ色鮮やかな花びらが辺りに芳香を漂わせながら散っていく様子を、どんな人生を歩もうとも、誰もが同じように、最後は死に至る人生に重ね合わせ、死に至る最後の峠を越えて走馬燈のように振り返る生き様は、高揚感のない浅い夢を見ているようだという内容かなと考えています。
死生観は生き様そのものです。昨今、自殺が増えたことも問題ですが、死は他力本願にするものではありません。すべての人に残された最期の自由は、有効活用すべきです。
なお、いろは歌以外の身近な和歌としては、1000年くらい前に作られたとされる、古今和歌集の「君が代は」で始まる和歌でしょうか。
古い、言祝ぎ(ことほぎ・寿ぎとも書きます)の和歌でもあり、江戸時代に至るまで広く民間に浸透していたと言われます(ただし、今と解釈は異なります)。
それが今や国歌ですから、和歌ですら、時代により変わっていくということです。
さて、北朝鮮の落ち穂拾い(ミレの「落ち穂拾い」のような牧歌的光景であればよかったのですが。)銃殺事件、アフガニスタンの環境的な要因による絶対的生産量不足と難民発生等、決して他人事としてはならない深刻な問題が起きています。
どちらも、人為的あるいは地球規模の気候変動により、今までできていた生活ができなくなったことにより発生したという意味では、地球環境の問題として位置づけられるのでしょう。
北朝鮮の現状は、簡単に言えば、ここ数十年の間、北朝鮮で燃料不足による薪確保のため、山の木を切りすぎて、はげ山が増え、山の保水力がなくなり、その結果、大雨が降ると大量の雨が川を氾濫させ、洪水が発生し、田畑を流してしまうことと、保水力がなくなった山から流れる川は、雨が降らないと直ぐに水源が枯渇し川が枯れ、その結果干ばつが起き、それが繰り返されることで田畑がやせて収穫量が落ちるという悪循環がなかなか断ち切れないということになるのでしょうか。
70数年前の焼け野原の戦後日本で、全国植樹祭と銘打って至る所で「お手植えの木」が植えられたことも意味があった(由緒ある樹木は、簡単に伐採できないし、きちんと手入れがなされ、林が増える)ということになるのかも知れません。
ところで、樹木は、わずかな気候の違いで植生が変化します。この前、マスコミがバッシングしていましたが、栽培作物もそうです。今の気候に合わせそこに適した樹木を植える必要もあります。
その上で、保水力の回復は、はげ山の回復から始める地道な取り組みあるのみというわけです。
逆に、今の日本は、林業の衰退とともに、手入れのされない山が増え、里山の消滅ともに、大型野生動物が住宅地にも出てくるようになりました。
里山は人が住むだけのものではないし、平地に近い方が、林業は利益が出るそうなので、世界的な短期的に発生するだけと思われるウッドショック対策ではなく、長い目で見る山林育成の重要性の観点から、里山での林業の育成にも取り組むべきだと考えます。
山と住宅地を区別する里山の営林化は、ある意味、一石二鳥だと考えます。
個人的意見としては、平地でも山林でも、伐採にお金がかかり、切り出された大木はそのまま廃棄という今の日本の現状は、全くナンセンスだと思っています。
持続可能な山林の育成管理をすることこそ、日本で行える温暖化対策としての環境問題にもつながるかと思います。
色は匂えど 散りぬるを いろはにほへと ちりぬるを
我が代 誰そ 常ならむ わかよ たれそ つねならむ
有為の奥山 今日越えて うゐのおくやま けふこえて
浅き夢見し 酔ひもせず あさきゆめみし ゑひもせす
作者不明の僧侶が作ったと言われていますが、いろは歌の、他に例を見ない優れたところは、日本語の音を全部1回ずつ使用して、響きのきれいな日本語を配列し、意味のある歌を作り上げたことです。
歴史的には、長い間、日本語の文字を初めて覚える際に利用されたので、いろは歌の意味は知らないが、誰もがこの歌を知っているという不思議な現象が起きました。
この歌の解釈には諸説あるようですが、個人的には、まだまだ色鮮やかな花びらが辺りに芳香を漂わせながら散っていく様子を、どんな人生を歩もうとも、誰もが同じように、最後は死に至る人生に重ね合わせ、死に至る最後の峠を越えて走馬燈のように振り返る生き様は、高揚感のない浅い夢を見ているようだという内容かなと考えています。
死生観は生き様そのものです。昨今、自殺が増えたことも問題ですが、死は他力本願にするものではありません。すべての人に残された最期の自由は、有効活用すべきです。
なお、いろは歌以外の身近な和歌としては、1000年くらい前に作られたとされる、古今和歌集の「君が代は」で始まる和歌でしょうか。
古い、言祝ぎ(ことほぎ・寿ぎとも書きます)の和歌でもあり、江戸時代に至るまで広く民間に浸透していたと言われます(ただし、今と解釈は異なります)。
それが今や国歌ですから、和歌ですら、時代により変わっていくということです。
さて、北朝鮮の落ち穂拾い(ミレの「落ち穂拾い」のような牧歌的光景であればよかったのですが。)銃殺事件、アフガニスタンの環境的な要因による絶対的生産量不足と難民発生等、決して他人事としてはならない深刻な問題が起きています。
どちらも、人為的あるいは地球規模の気候変動により、今までできていた生活ができなくなったことにより発生したという意味では、地球環境の問題として位置づけられるのでしょう。
北朝鮮の現状は、簡単に言えば、ここ数十年の間、北朝鮮で燃料不足による薪確保のため、山の木を切りすぎて、はげ山が増え、山の保水力がなくなり、その結果、大雨が降ると大量の雨が川を氾濫させ、洪水が発生し、田畑を流してしまうことと、保水力がなくなった山から流れる川は、雨が降らないと直ぐに水源が枯渇し川が枯れ、その結果干ばつが起き、それが繰り返されることで田畑がやせて収穫量が落ちるという悪循環がなかなか断ち切れないということになるのでしょうか。
70数年前の焼け野原の戦後日本で、全国植樹祭と銘打って至る所で「お手植えの木」が植えられたことも意味があった(由緒ある樹木は、簡単に伐採できないし、きちんと手入れがなされ、林が増える)ということになるのかも知れません。
ところで、樹木は、わずかな気候の違いで植生が変化します。この前、マスコミがバッシングしていましたが、栽培作物もそうです。今の気候に合わせそこに適した樹木を植える必要もあります。
その上で、保水力の回復は、はげ山の回復から始める地道な取り組みあるのみというわけです。
逆に、今の日本は、林業の衰退とともに、手入れのされない山が増え、里山の消滅ともに、大型野生動物が住宅地にも出てくるようになりました。
里山は人が住むだけのものではないし、平地に近い方が、林業は利益が出るそうなので、世界的な短期的に発生するだけと思われるウッドショック対策ではなく、長い目で見る山林育成の重要性の観点から、里山での林業の育成にも取り組むべきだと考えます。
山と住宅地を区別する里山の営林化は、ある意味、一石二鳥だと考えます。
個人的意見としては、平地でも山林でも、伐採にお金がかかり、切り出された大木はそのまま廃棄という今の日本の現状は、全くナンセンスだと思っています。
持続可能な山林の育成管理をすることこそ、日本で行える温暖化対策としての環境問題にもつながるかと思います。
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