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時事問題 : 人が人を裁くということ・・・・麻原事件控訴棄却をうけて
投稿者 : admin 投稿日時: 2006-03-28 (995 ヒット)
天の裁きやのように、絶対的な不動の存在により裁きを受ける場合には、それに対して人は何も文句は言いますまい。
敗戦直後に、東京裁判というものがありました。何回も映画化されているし、今でも詳細がよく知られていますが、「公正な裁判で死刑判決を受けたのだから死刑やむなし」と思う日本人も、敗戦の記憶が完全に薄れたらでてくるのかも知れません。あの裁判も形式的には、刑事手続きを踏んだきちんとした裁判です。ただ、私も結果ありきの裁判だったと思います。
先日、旧ユーゴスラビアのミロシェビッチ元大統領が獄中死しましたが、あれも国際刑事裁判中の話で、自殺あるいは死にたがっていたという記事もでました。
イラクの元大統領は、自分が裁かれている裁判法廷で「これは茶番だ」と言い切って、退廷命令を受けたという記事もありました。
 そう、刑事裁判の中には明らかに茶番、すなわち結果ありきの裁判が存在するのです。

 だったら、なぜ裁判をするのか。それは、人が人を裁く以上、いわゆるリンチ(私刑)と異なり、客観的公正さを担保する必要があるからなどと言われます。
 かといって、イラクの元大統領がいなくなって内戦勃発で死者が多数出て宗教対立は進み、ある民族は独立を掲げ、国としても統一性がなくなり国益が外国資本に吸い取られている状況が作り出されたということは、ま、彼のやったこととは無関係です。どっちの死者が多いかとか、どっちの死者が悲惨だとかも関係ありません。彼は彼のやったことに対して裁かれます。イラクで刑事裁判の考えが浸透せず、刑事裁判によらずに人を裁いたことも問題となるのでしょうね。 
 国際公法、国際司法はヨーロッパの考え方が元になっています。イスラムの教え、共産主義的発想には、ミスマッチの場合があるのです。

 「ばかは勉強しろ」とちょっと前のテレビドラマで主人公が言っていましたが、まさに、国際社会において、国際公法の仕組みを知らなかったり、国際司法を理解していなかったりしたら、置いてけぼりになってしまいます。私は、これぞまさに「ばかは勉強しろ」ということだと考えています。

 麻原事件は、控訴棄却で高裁控訴審は終わりました。弁護人に選任され、被告人に会いに行っても、被告人が会おうとしないとか、会ってもうんともすんとも言おうともしなければ、控訴趣意書はなかなか書きにくいです。・・・控訴趣意書はあくまで被告人の意見を法律的に咀嚼して代弁するため、本人の意向を全く聞かないということができません。本人の意向をまったく聞かずに、控訴趣意書を作成し懲戒処分となった弁護士もいるはずです。かといって、弁護人を辞任しようにも、誰も他になり手がいない状況で、なすすべがなかった一面もあるのではないでしょうか。私だったら、この状態で控訴趣意書を出す勇気はたぶんでないでしょう。
 今回の麻原精神鑑定でも、山口光市母子殺害事件でも、そうですが、被告人の細かい言動が記録されていることに驚きました。一般に自殺防止のため、24時間監視カメラが設置されているとは言われているのですが、24時間録音もあったんでしょうね。文書の検閲もありですし。未決拘禁者のプライバシーはほとんどないということがわかりました(もちろん、公正な裁判を目的とする、刑事訴訟法では、未決拘禁者は無罪推定の原則が働き、過度の人権侵害はされないことが原則となっています。ま、ここら辺が、ヨーロッパ流の刑事裁判を取り入れようと努力した日本司法140年の成果としての限界かも知れませんが)。
 
 芥川龍之介の作品で「蜘蛛の糸」という作品があります。小学校国語の教科書に載っていた作品なので、知る人ぞ知るというところでしょうが、子ども心に難解で、なかなか読書感想文が書けなかったところ、ある友人が「このお釈迦様は偉そうだ。どれだけ偉いのか。お釈迦様は人間でないとしてもこんな簡単に人を裁けるのか」とすぱっと言いきったことを今でも記憶しています。
 死刑廃止制度論者の考えの根幹は、こういったところにもあるのではないでしょうか。

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