国家的デフォルトを回避するために真剣に考える・・その2農業について考える (4)

投稿日時 2010-06-16 | カテゴリ: 時事問題

今回は、その3として、種、苗について書きます。

 我が国には種苗法という法律があり、農業の特許法のような法律で、品種改良した種苗の権利を保護しています。著作権法などは、ベルヌ条約という条約で、全世界的にほぼ同内容の著作権の権利が保護されることになりますが、国際法分野では、植物の新品種の保護に関する国際条約(但し批准国は多くない)で保護されます。
 しかし、この種苗法というのは、パテント関係を取り扱う上では無視できず、私もざっとですが、この法律に目を通したことがあります。

 日本の場合には、品種改良は農業試験場が先行し、地域性のある新品種の改良、販売普及により、地域農業活性化の牽引役として期待されているところではあります。
 米、トマト、メロンにしても、なんでここまで、いろいろあるのという位、同じものでもいろいろあって、味も違いますよね。

 さて、日本の強みは何かといえば、味覚の細かさにあると思います。
 欧米に比べ、抵抗なく、また残すところなく、様々なものを食材として開発できること(ツバメの巣を食材にする中国ほどではないかもしれませんが)、それに相応した味覚を持っていることは、いろいろな品種を改良していく上で、不可欠の要素です。
 
 もっとも、味覚の細かさだけで世界的に成功するのかと言えば、そうではなく、地域性という難問があります。
 味覚、色彩感覚は、民族性、地域性があり、感じる刺激が微妙に異なると言われています。つまり、その土地に根付いた文化に由来するというだけでは解決できない、地域ごとに受け入れられる味覚があり、日本人がいいという味と、その地域の人がいいという味は必ずしも一致しません。

 たとえば、日本で有名なフランス料理のフランス人シェフも、日本では、微妙に日本仕様に合わせた味付け、盛りつけにして、料理を出し、評価を得ているというのがその例です。もしかしたら、そのフランス人シェフにしてみたら、何で日本人はこんな味を好むのだろうと思っているかも知れません。
 世界中どこに行ってもある料理店は中華料理店だそうですが、中華料理店と一口に言っても、台湾に観光に行けばわかりますが、広東料理だけでなく、十以上の種類(料理品目はもっと多い。)があります。日本の中華料理店に置いてあるメニューは、そのうち、日本人の味覚に合う中華料理がセレクトされているということになのでしょう。

 その地域性にあった味覚にベストマッチした商品があると、商品は爆発的に売れます。過去に実際にあった例としては、香辛料と紅茶でしょうか。
 香辛料も紅茶も、それが生産、輸出されていたがために、植民地化など不幸な歴史を負うことになった国もありますが、例え、その地域では、全く生産できないものであったとしても、食生活に必要不可欠となり、常時輸入しなければならない農作物はあるのです。

 販売ルートを確保し、輸出農作物として確固たる地位を占めることができれば、安定供給することができます。
 その地域でしか取れない非常にレアな農作物が開発され、それに恒常的安定的ニーズが確保されれば、農業の営業としては軌道に乗ります。
 理屈はこうですが、私にも、一体どんな商品があるのか、想像つきません。

 さて、最後に農林業の効用をひとつ。
 引きこもりが今社会問題化しています。引きこもり対策として、ペットを飼うなども有効とも言われていますが、植物の世話をすること、収穫の楽しみもある点からミニ農園で作業することも、いいのではと考えます。
 何がいいのかと言えば、農作業はただ黙々と作業をすることがメインなので、対人関係に煩わしさを覚えている人に適しているし、収穫の質量を高められるため、技術も磨け、向上心もつき、また自分が世話をしなければ枯れてしまうのですから、張り合いも出てくる点です。
 引きこもりの人が、授産施設(通常はサービス業、製造業の軽作業が多い)に行っても、また対人関係で悩む人もあり、そういう人にはお勧めの作業ではないかと思うわけです。
 短時間でもアウトドアで黙々と作業するのは、慣れてしまえば、それなりに気分転換になります。引きこもっている人の方が、逆に、黙々と作業をするのに抵抗がない人も多く、そういう人には向いている作業です。

 ただ、一つ問題があり、土に対する抵抗というか、簡単に言えば、「手が汚れる」から始まる発想が先に立つのであれば、難しいでしょう。農作業は小さい頃に自宅の庭先のミニ農園でもいいですが、生産現場を実際に見て体験せずに、成人してから農作業をするのは難しいです。
 農林業、漁業、製造業など、いわゆる3kの職場に対する偏見をなくすため、学齢期に実習体験をすることは、結構有用なのではないかと思います。
 私としては、鳩山政権が実施した高等学校完全無償化よりも、小学校、中学校の義務教育を充実化させ、義務教育の中で、社会に出て必要な教育知識をどの子にも習得させ、だらだらと義務教育の補習をするような高等学校の存在を不要とする教育システムを作っていくべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
 我が国の歴史的に見て、たとえば、在原業平、西行といった高等遊民は非労働者階級の特権でした。今では、非労働者が、引きこもりという名称でどの社会階級層にも存在しています。
 インテリ社会が成熟した結果がこれかも知れませんが、もう一度、生産とは何か、社会経済循環が成立する有効的な労働とは何か、そういう労働者を育てるために、どういう教育が必要なのか(受験社会のエリートのいう、ゆとり教育とは違います。)、再考すべきと思います。社会の大半の人は、何らかの形で労働をしなければならず、労働者の期間は、人生の大部分を占めるわけで、適切な労働体験、労働認識を育てる教育なくしてする教育は、果たして必要なものなのか、疑問です。

 なんだかよくわからないまま、学校の教育だけおざなりに受けて社会に放り出され、そのまま失業、精神をわずらい、そのまま一生生活保護というパターンが実際に増えているのですが、これも、その人にとっても、社会にとっても、結構大変です。
 低賃金外国人が増えている現状では、従前の公共事業を増やせば、失業者を吸収でき、雇用が生まれる構図は成立しなくなっています。その意味で、ハコから人に対する施策の方向転換は正しいのですが、生活保護受給世帯、あるいはホームレス世帯を対象とする雇用創出、労働により社会経済の循環の活性化を実現する施策について、知恵を絞る時期に来ています。

 私としては、このような労働者層の雇用若しくは授産施設の設置により、耕作放棄地の活用による輸出農作物の生産をするとか、町工場に、雇用奨励金をつけ生活保護対象者を雇用させる(人件費の補助を弾力的にすることで、町工場の製品に価格対抗力をつけ、かつ、生活保護費を削減する)なども検討の余地があると思うのですが、どうでしょうかね。

有効性ある社会保障費の削減は、絶対に必要です。


 私なりに、破綻について長々と書いてきましたが、難しい問題です。誰か(?ではないのでしょうが)がもっと知恵を絞り、ある程度の期間をかけて実効的施策を進めるしかないでしょう。




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