発禁と、憲法21条 表現の自由・出版の自由

投稿日時 2012-09-22 | カテゴリ: 時事問題

 中国ニュースの続報として、北京市が日本関連書籍について発禁手続きを指示したとのニュースがありました。

 我が国で、適法手続を踏まずに発禁処分をすれば、これは憲法21条に根拠を持つ、出版の自由、表現の自由の侵害となります。基本、我が国は、法治国家、すなわち法律に基づく行政しかできませんので、裁判所の手続きを踏む以外に、当局が特定の出版物の発禁をする法的根拠がありませんから、日本において当局が北京市のような指示をすることは、不可能です。
 これは、法治国家たる国ではだいたい同様で、例えば、イギリス皇室の写真についても、国家間が発禁処分について協議し解決するのではなく、イギリス皇室がフランスの裁判所に雑誌の出版差し止めを求め、対応したことは、記憶に新しいことと思います。
 また、米国を悩ましたムハマンドの映画についても、公開差し止めは法的手続きを踏まなければできず、イスラム教徒からしたら、どんなにけしからん内容だったとしても、けしからんからと表現すること、つまり映画の製作を禁止することまでは、法的根拠がないからできないのです。

 このように、表現の自由は、先進国においては、非常に保護されている権利です。
 わが国でも、憲法一般を勉強する場合には、憲法21条「表現の自由」については、かなりしっかりと教え込まされます。
だから、北京市の発禁処分は、日本の常識からすれば、「とんでもなく、ありえないこと」であり、現代版焚書かと言いたくなるのですが、ちょっと思うのは、もしかして、中国では、日常的にこんな感じで当局の意思ひとつで出版規制が行われているのではないかという懸念です。
 わが国では、表現の自由の弾圧は、軍国主義が進みつつある際に行われたこともあり、表現の自由を守り、リベラルな環境を維持することこそが、「誤った道に進まない」方策であるかのように、教わります。
 今では、世界中でも数えるほどしかなくなった共産主義最大の国家故、また、属国だったのかどうかの議論は別としても、国内に組入れたチベット、ウィグル等の多民族の問題も抱えるため、出版統制が不可欠という当局の判断もあるのかも知れませんが、これでは、民族間、国家間の相互理解は深められません。
今回のこともそうですが、自分たちの時代にどうしたこうしたというのであれば反論しやすいのですが、韓国もそうですが、中国では、自分たちの祖父母の時代にどうしたこうしたと言われるわけですから、事実を隠すということは、紛争の火種をいつまでも残すということにならないのでしょうか。
 同じ仏教徒としては、経済の豊かさよりも民族や宗教の誇りを優先させるチベット族の人々の言動には、共感を覚えます。日本にいてもそう考えるのですから、中国国内でもこのように考える人がいても不思議ではないと思います。

 なお、お隣の韓国では、最近まで、日本文化の輸入を拒んできました。在日韓国人の著名演出家 故つかこうへい氏(代表作・蒲田行進曲)の韓国公演の際の日本語歌詞の上演が、韓国当局が近年日本語での公演を認めた最初とのことです。
 これは、戦前、日本統治前の朝鮮半島での識字率がさほど高くなかったところに、日本統治開始で学童全員に教育を施した際に、日本語教育を取り入れたため、ハングルよりも日本語の読み書きができる世代が発生したことによると思われます。そのため、これの連鎖を止め、半ば強制的にハングル語の国家に戻すために、日本文化の輸入禁止の措置を取ったと考えています。そして、ようやくハングルが定着したので、韓国も日本文化の輸入が解禁されたというわけです。
 ただし、個人的には、この際に漢字文化まで全部捨てたことについては、やりすぎたと考えています。
 したがって、この韓国の例は、日本語の、国民への定着を阻止するために行われたものであり、中国では、このような事情がないわけですから、日本関連書籍の出版禁止は、やはり表現の自由の侵害で、やりすぎだということになります。




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