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投稿者 : admin 投稿日時: 2017-08-19 (646 ヒット)
1 韓国のムン大統領が賠償合意をした当時知り得なかった損害であるから、個人請求権は消滅しないとのコメントを発表しました。
 日本の民法では、不法行為法においては、当時知り得なかった損害賠償請求については、行為時から時効が発生しないことになっているため、このムン氏の発言は、不法行為を念頭においての発言で、一見、言い分があるように見えます。

2 70年以上前の損害賠償請求ができるのか

 しかし、我が国の不法行為法では、知ったときから3年だけでなく、行為時から20年経てば時効にかかるため、損害賠償請求はできません。不法行為については、何年経っても損害賠償請求できるのであれば何年経っても法的安定性が図れないので、世界的にも不法行為も一定の時効にかかるとしている方が多いはずです。
 なお、韓国の裁判所に係属しているのは、どうも賃金請求のため、我が国では賃金債権は2年で時効になる関係上(なお2年で時効にかかりますが、労働債権に限り付加金という裁判上の制度を使えば請求額の2倍まで認容されます。また会社が倒産しても一定の条件はありますが、国による立替払制度があったりするので、我が国では、どちらかと言えば、一般債権より手厚く保護されているとも評価できます。)、全く問題にならないという結論になります。
 余談ですが、先日国会で成立した、改正民法(施行は3年後)では、債権の時効は、知った時から5年または権利行使可能になった時から10年と状況によっては短くなりますが、労働債権の時効に変更はありません。不法行為の時効も変更されません。

 では、ムン氏がいう戦時の特殊性を問題にできるのか
 過去に、日本が韓国に巨額の賠償金を支払いつつ、賠償金を個人に分配していないわけですから、韓国政府が、特別法を作り、韓国政府自ら、当該個人に賠償を行うことは、可能です。
 ムン氏が言うように、徴用労働に対して個人的請求権が消滅していないというのであれば、日本から巨額賠償金を獲得した韓国政府こそで、韓国の国内法を整備して韓国民に対して賠償する義務があるわけです、正確に言えば。
 そもそも、韓国は太平洋戦争の相手国ではなく、我が国と交戦した事実はありません。この賠償金は、植民地政策に対する賠償金であり、戦時法は、日本本土と同様、植民地においても適用され、戦時国内法の下、徴兵、勤労の義務が課されました。問題になっているのは、その法制に基づく労働の対価を請求できるのかということです。
 日本政府が、本土と同様に植民地においてもなした国策すべてに対して巨額賠償した以上、それ以上のことを望むというのは、国際公法の概念を大きく逸脱します。

 ムン氏は弁護士とのことです。しかし、国際私法と国際公法はその枠組みで重複しますが、その考え方は異なります。
 国際公法は、時に、国家という枠で国民の権利を守り、また国民の権利を代位する役割を担いますので、国民を代表・代理して国家間の取り決めを行うことができます。その意味で、国家間の合意は、当該国民の権利を制限することができます(その制限を受けた当該国民は自国政府に対して賠償を求めていく枠組みで、整合性が図られます)。
 にも関わらず、ここで私法の不法行為の理論を持ち出した時点で、おかしいということになります(賃金請求であることは一旦無視します)。

 ちなみに、戦中戦後のどさくさの出来事に対する個人請求権が未だに保護されるのであれば、朝鮮という植民地にある財産を放棄させられた日本の国民の方が剥奪された財産はよほど大きいわけですから、請求権は遙かに大きいはずです。
朝鮮半島の日本国民は、韓国政府の下、民事上の損害賠償請求を全面放棄された形になっているわけですから。

 一連の騒動は、日頃、国際公法に触れることのない、弁護士らしい発言とも言えますが、今一度、国際公法の観点から、賠償に関する一連の合意内容(条約)を、きちんと確認して欲しいところです。
 
 過去の経緯、国際公法から離れて、過去に国際公法上解決済みの問題を、韓国内の立法政策の問題として対応するならばともかく、国際公法と国際私法の問題を混同し、時効問題を無視した超法規的な賃金請求、損害賠償請求が正当かのように、私法の不法行為の理論を展開するというのは、弁護士としても、条約の相手方である国家元首としても、いかがなものかと個人的には思います。

投稿者 : admin 投稿日時: 2016-11-06 (755 ヒット)
1  築地市場の豊洲移転はニュースとしてだいぶ下火になってきましたが、明らかになったのは、地下水の出現と、盛り土予算がどこに消えたのかということだけ。
築地の場内市場は、流通ルートの変容にともなう物流量の縮小に伴って移転を機に廃業したのか、あるいはこの時期に早め休業を選択したのかは不明ですが、閉店している店が目立っています。

 臨海部において、高層建物の地下にピットホールを設けて、建物荷重の反作用として存在する地下水圧の上向きの力(建物からすれば浮力)を、ピットホールで水抜きさせて逃がすのは、基礎杭工法を前提にすると当然のようですから、地下空間があることが悪いことでもないし、ピットホールの本来の役割を考えると、水が溜まるのは本来の機能がきちんと果たされているわけですから、問題になるはずもない。
 立地条件はもともと判明していたこと。
 ならば、早く、移動の号令をかけて欲しいというところです。
 
 さて、建築問題として、熊本地震と鳥取地震がありましたが、熊本地震では、築浅の木造建物が倒壊したケースもあったということですが、それが、現在の建築基準法では義務づけがないが、普通やらない施工をした結果の倒壊であれば、そこは法律を変えていくべきかと思います。
 ところで、建築基準法というのは、つくづく面白い法律だと思います。窓のない部屋(正確には採光の条件が満たされない部屋)は、我が国では居室と認めないとか、根拠がありそうで根拠がない壁倍率なる定数(ここでいうのは、壁倍率の数値算定に根拠があっても、壁倍率なるものに、どういう科学的位置づけがあるのかという意味です)が建築の基礎になって、風力、地震力、積載荷重に対する耐力の有無を判定する等、誰が考えついたのかは知りませんが、国民生活の、建物の対する理想と、実際に建物を建てる大工が使える内容にする妥協が、いい具合に盛り込まれています。
 建築法制は税法並に短期間で法令改正を繰り返す分野ですが、理想論と現実の妥協が、いい感じで詰まっていると思います。
 
 最初に問題にした豊洲問題は、建築基準法制定時の想定を遙かに超える、特に鉛直に長い建物の出現(計算上、単位当たりの荷重が非常に大きくなる)は、また地下水の揚水が当時より激減した現状では、想定外であった地下水圧の問題まで配慮しなければならなくなったというわけです。

20170512補足
 地下水についての話として、観測データの豊富な検証経験と見識をもって簡単に書かれている文献として、岩波新書「地下水は語る-見えない資源の危機」という本があります。
 地下深い所の水の流れ、特に、揚水過剰で渇水が起こると渇水状態にある地域に向け、新たな地下水の流れができるというのが、大変興味深く、地下水の揚水過剰が継続すると、当該地域だけでなく、もっと広域に渇水が生じ、結果、地方全体が本当に干上がる状態が生じるのだと、素人にも想像できました。
 地表の水資源の状況は、その地形に大きく左右されますが、永久凍土でもない限り、地下水脈は、例えばサハラ砂漠直下であっても、きちんと存在するとされており、地下水くみ上げが地下環境に与える影響は、同じ仕組みと考えられます。
 
  
2 市場の問題と連動する問題として、東京都の支出するオリンピック施設会場をどこにするのか、問題になっていますが、私は個人的には長沼案に賛成します。
 オリンピックは、世界的な祭典ですが、日本で行う祭りの意味は、基本的には死者を慰めるものが祭りの発祥であることも多いのです。 
 また、この島国で社交的ということはありませんが、自然災害が多いこともあり、年2回の彼岸、盆(迎え火で迎え、送り火で送る)と死者をもてなす機会が、やたら多い国ではあります(あのオリンピック誘致のレセプションの「日本はおもてなしの国」という表現は疑問を感じますが、別の意味で手を合わせてもてなすことが多いことは事実なのでしょう)。
 今回、津波災害の犠牲者が多かった東北でオリンピックを行うこと、また水の競技(特に今回は外海でやるものではない。)を行うことに、一つの意義を感じます。

 世界的に祭りの位置づけがどうなのかまでは知りませんが、日本の事情を理解していただければ幸いかなと、そうすれば、ある意味、オリンピックが、日本古来の、また本来的な、最上のおもてなしになるのではないかと思います。

投稿者 : admin 投稿日時: 2016-07-28 (841 ヒット)
 知事の辞任により始まった都知事選挙ですが、個がアピールできるゆえ、組織が先行する参議院議員選挙より、気になるところです。
 都政に希望する内容は以下の通りです。

1 人口減少を見据えた都市計画
 日本全体が人口減少する中で、東京及び首都圏だけはその影響が小さいと言われます。
 農村が農村として機能していた時代は、都市は農村の余剰人員の受け皿機能を果たしました。
 都市経済という名の、商業経済主体それも、流通経済とともに情報そのものが一大産業になり、都市の優位性が更に増すことで、地方が余剰人員を超える人を流出させるようになると、地方そのものが衰退し、やがて地方から人材を受け入れて発展してきた都市機能そのものが立ちいかなくなるというのは、蓋然性の高い未来像であるわけです。
 したがって、都市機能として、地方からの人材を受け入れやすくする体制作りはこれからも必要ですが、それだけではなく、確実に衰退が見えていく地方をどう盛り上げるのかを、東京という都市の中で考えていくべき時代が来ているのだと思います。
 
 そういう観点からすれば、地方との共生関係維持は避けて通れない命題であり、今後どのように関わり合っていくか、知恵を絞っていただく展開を期待したいところです。

2  将来人口の育成
 将来の人口予測で、豊島区が消滅するとの予測がありますが、これを防ぐには、流入以外の方法での人口確保を、それも基本的には将来の労働人口になりうる人材を多く育成する必要があります。
 インターネットが発達し、高度な情報化社会になった現在であっても、日本語の読み書き・そろばん(計算)は必須です。むしろ、余計必要になっている部分もあります。
 具体的には、義務教育の国語、算数とコンピュータ(プログラミングを含む)と社会性だけは、きちんと身に着けてもらう必要があるわけです。
 小学校、中学校の段階でも、子ども一人ひとりの知能の発達度合に違いがみられ、個々人の個性特性に応じた能力才能を伸ばすべきで、学力を画一的に点数化することに問題があるのは事実ですが、個の尊重とは言っていられないのが、読み書きそろばんです。
 学力テストの結果で、今一度考えていただきたいのは、適切な比較により学力が低い相対的な原因を探求し、それで終わらせるのではなく、読み書きそろばんの学習をどこで、どうやってバックアップして、教えていくかを再考する段階ではないかと思います。
 悩ましい問題で、かつ息の長い話になりますが、実効性ある失業者対策として、是非とも、きちんとした義務教育の実施、労働能力足りうるメンタル的、社会性的な素養の育成をしてほしいところです。これに力を入れていただきたいと思います。
 全国的な相対比較で言えば、東京は、全国一福祉が充実している都市だと思いますので、どこかの政党のように、福祉福祉と声高に叫ぶことは、今の時代には当てはまらず、逆に、例えば、生活保護受給者の減少のために、きちんとした義務教育、社会教育を施す方を考えるべきだと思います。

3 世界の中の日本
 多くの日本人が犠牲になったダッカテロ事件では、日本人に対しても宗教的なアクションが容赦なく向けられる時代になったことを痛感させられました。東京も日々国際色豊かになりつつあり、日本人も国際性を身に着けなければならない反面、逆にその多様な人々も、日本という社会に溶け込んでいただかなければならない時代が来ています。
 その時に、日本のルールにどうなじんでもらうのかの工夫とともに、イスラム教とは何か、過激派の思想とは何かをきちんと理解する必要があります。
 例えば、今回の襲撃がJICAの下請け会社が何をしているのかわからないことからくるものだったのであれば、バングラデシュで、彼らが何をしているのか、日本側がもっとアピールをする必要があったと言えます。
 日本にいる日本人の立場からすれば、バングラデシュの地域貢献のために行ったはずなのに、なぜ命を奪われなくてはならないのか、やるせなを感じます。
 なお、話題のAIIBの最初の融資先はバングラデシュになったとのニュースが少し前に流れましたが、もともとインフラ投資は、収益性が不安定で、民間投資になじみにくいため、日本では政府の円借款で行ってきたと理解していましたが、うまくいくのでしょうか。二つのニュースが流れた時期が同じだったので、少々気になります。

4 列島の中の日本
 今年に入って、熊の出没が話題になりましたが、数年前から、サル、鹿、イノシシの繁殖が言われてきました。この出来事が、日本の国土の3分の2を占める山林で、戦後の自然破壊、動植物の減少がピークだった時代から緩やかに豊かになり、とうとう食物連鎖の頂点である大型ほ乳類が、全国的に増えた証であるとすれば、自然が戻ってきたということになるのでしょうか。とすれば、これはある意味いい話になるのでしょうか。
 もちろん、自然が戻ってくれば、戻ってきたなりに、それに応じた自然との上手な付き合い方が必要です。ヒグマとの共存を目指している北海道知床地方では、役所には動物専用の担当職員の方がいるそうですが、自然の危険からニンゲンを守りつつ、自然を維持する方法が必要になるのだと思います。
 時代は日々移り変わるということなのでしょう。

 とりとめのない話になりましたが、どなたが当選されてもいいので、都政においても、今以上の福祉を拡充するというよりも、教育と人口問題はとりわけ力を入れ、失業者と生活保護者の減少を実現する政治を希望します。

投稿者 : admin 投稿日時: 2016-03-28 (1039 ヒット)
1 16年後の職業はどんな職業か
 
 アメリカの学者キャシー・デビッドソン氏の「今アメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就くだろう」との予測は、ここ数年、教育関係者の講演でしばしば耳にした話題です。
 一種センセーショナルな予測ではありますが、おしなべて教育関係者の講演では、この予測は正しく、それ故、子どもには予測できない未来に対応する力を身につけさせなければならないと締めくくる意見が多かったような気がします。
 その論評の中には、およそ100年前の花形職業のうち、いくつが現在も残っているのか考えれば、この予測は妥当との意見がありましたが、そう言われれば首肯できます。
 時代の花形職業というのは、基本的に時代の先端を行く新しい業種で、時代の先端ゆえ、職業として確立するのかどうかも不明で、ある意味栄枯盛衰が激しいことは確かに間違いありません。また技術革新の結果、プラスチック製造に欠かせない金型も、いまや3Dプリンターが取って代わる時代が来ています。

2 どんな職業が機械化するか
 
 しかし、国勢調査の人口統計などに使われる、産業分野で仕事がなくなる分野があるかといえば、それはあり得ません。
 しかし、廃坑、廃校、廃村などにより当該地域のニーズが完全に枯渇した場合には、当該地域には、その産業は完全になくなりますし、グローバル化がさらに進めば、この地域の単位が更に拡大化することになり、地域によって衰退する産業が顕著化すると思われます。
 しかし、例えば、食料生産は人が生き続けるために必須条件であるため、資源の枯渇に配慮したり、利益率、限界利益を考慮して生産の工夫が必要なのは当然ですが、文明、文化がある以上、どこかで必ずそれに見合う食料生産がされることは必然の命題です(逆に言えば、それに見合う食料供給が途絶えた文明は衰退を回避できない)。
 また、最高のサービスは人のサービスであるとの価値観も、世界共通のもののようなので、サービス業のほとんどは残ることになります。
 機械化するのは、医療分野(外科手術の一部、検査技術の発達による定型診断の代替)、農林水産業、工業、サービス業の一部という感じでしょうか。
 機械化は、必然的に力作業が少なくなることを意味するので、産業全体でみても、女性が進出できる産業分野は、今後も増えていくことは確実と思われます。

3 女性に向いた職業は何か
 さて、現在の日本で女性に向いた仕事はどういう分野になるのでしょうか。機械化も相まって適応職種は広がりつつあります。
 私は男女雇用機会均等法施行後の、誰もが一度は社会人になった世代ですが、この年になっても長く働き続けている女性は、公務員か、弁護士、税理士、医師、薬剤師、看護師等の有資格者や、研究職、自営業の方が多いと思います。新卒で入った会社に今でも勤務している会社員は、割合的には、多くないと思います。

 そこで、新卒の就活をする方には、人気の職業に就くことを目指すだけでなく、自分のライフプランをどう設計するのか、思い描きながら、自分のライフプランに合った業種・業態への就職活動をされることをお勧めします。
 長く勤めたいのであれば、資格が必要な業種、研究職、公務員、自営業を含むいわゆる専門職と呼ばれる業種が、長い目で見れば、確実に有利だと思いますが、転職でスキルを身に着ける方もいます。
 
 さて、法曹は、我々が体験した司法試験がなくなって法科大学院制度が始まった、ひと頃の人気はなく、弁護士の就職難に代表される、人余りの時代はまだまだ続くと思われます。しかし、女性の選択する職業としては、自分の思い描く仕事スタイルを実践できるという意味で、魅力的な職業だと思います。裁判所ではたまに、臨月に近い女性弁護士を見かけ、頑張っているなと思います。苦労もありますが、それなりにやりがいのある仕事だと思います。
 ちょうど去年は弁護士20年目で同業の集まりがあったのですが、法曹に限って言えば、20年経っても仕事を辞めてしまった女性は、数える程度しかいません。各人が、それぞれ苦労をしつつ、それでも創意工夫で仕事を続けてきたと感じました。仕事と子育ての両方をこなすのは大変ですが、時に周囲の協力を仰ぎ、そのサポートに感謝しつつも仕事を続けていけば、男性とは違った観点で仕事ができると思います。
 出産しても仕事を続ける女性が増えた半面、晩婚化に合わせ高齢化する祖父母に子育てのサポートは期待できませんので、保育園の待機児童は今後も増加の一途をたどると思われますが、女性が仕事を続ける上で、保育園の充実は不可欠です。
「一億総活用」というのであれば、第一に対応しなければならない事柄ですので、老人ホームの拡充と同様、保育士の養成、保育園の増設は急ぎ行ってほしい施策です。

2016.3.31補足
 保育園は幼稚園とは異なり、0歳時の入所基準が月齢で決まります。4月の段階で基準に達する子もいれば年度途中で該当月例に達する子もいます。具体的には産休明け児童の受け入れがある場合、0歳クラスで、生後3か月児から1才11か月児(年度終わりの場合)まで混在することになります。
 そのため、4月の段階で保育園に全員入園できないという事態は、年度途中で該当月齢に達する子は確実に全員保育園に入れないことと同義で、状況は結構厳しいです。
 保育園の定員は、4月の段階ではいくらか余裕があり7月か8月位に定員いっぱいになる程度が本来の理想です。
 最近は幼稚園で延長預かりを実施しているので、幼稚園入学を待って復帰するという手もありますが、3年以上の仕事ブランクは、職場に取ってもご本人にとっても正直きついと思います。

投稿者 : admin 投稿日時: 2015-09-23 (1603 ヒット)
 子の面会交流について、元裁判官から判例時報への二度目の論文掲載がありました。
 なお、この方は、家裁の論点の論文を多く執筆されている方で傾聴に値しますが、裁判官としての短期的見識に基づいて書かれておられるのではと考え、少々、私見を書きたいと思います。

 この論文の要点は、今の家庭裁判所の、離婚した親の、子の面会交流を原則認める との立場を批判し、離婚調停の場で夫婦別席を厳格化する傾向にあるのに、面会交流だけ範囲を広げるのはバランスを欠くとか、子の精神的負担が多いから問題だとの論述を展開し、原則面会交流を認めるという基本的スタンスは問題であると指摘します(しかし、十分な話し合いのないまま離婚調停に突入した場合の、夫婦の修羅場での万一の事態を回避する必要性と、面会交流を一緒にすることはできない)。

 現場の立場からすれば、面会交流は長期的な子の立場に立っても必要で、現在の家裁のスタンスを支持されるべきと考えます。

 このサイトにも書きましたが(すでに記事は削除済みです。悪しからず。)、過去には、面会交流は、子の精神状況を理由にすれば簡単に拒否ができ、面会交渉権が有名無実化しているのではと思われる時期もありました。

 この、原則的に面会交流を認める立場を積極的に裁判所が認めるようになったことで、現実の流れとして
1 法制度上、面会手段の確保があるため、離婚を巡る夫婦の対立が長引くより子との新たな安定的な関係構築を優先したいと考える片親が出てきて、その分離婚手続きが円滑になる
2 母子、父子家庭は、育児と仕事だけで忙しく日々の生活に追われ、概して社会に対し閉鎖傾向にあるが、面会交流という形で、第3の視点が介在でき、監護養育する親自身にも自らの育児に客観性が出てくる
  また、合意通りの面会が実現できないとしても、片親の存在を意識することで、養育の閉鎖性が緩和される
3 面会を求める唯一の手段の制度的確立
4 子が、父あるいは母を知る機会を得られるようになった
という効果があるのではと考えています。
 
 離婚する夫婦は、片方できちんと子どもを育てる決意をもって離婚するわけですが、子育てを片親だけでやっていくのは、実際大変です。
 稼ぎも必要な反面、子どもが病気などすれば職場での調整もせざるを得ず、いろいろ苦労して子育てをするわけです。また、働くことを選択せず、実家に身を寄せ、自分の親の収入で育児をする場合には、自分の親のコントロール下にある精神的なストレスはありますし、親がまだ若く就労年齢で孫の養育に理解があれば別ですが、そのうち、収入もあてにできず介護の負担もかかってきます。
 痛ましい児童虐待のケース、特にネグレクト・育児放棄は、その家族が社会から孤立しているケースが多いという現状の打開策として、片親家庭に強制的に社会の風を吹き込ませるという意味で、面会交流が役立てられればと願うのです。

 この論文では、暴力をふるった親の面会は言語道断であるかのように書かれていますが、いわゆる暴力をふるった親とされる方と話しをしても(実際、双方の意見が食い違うので、なかったようなケースもあると思われます)、感情的になる時期が過ぎ冷静になれば、自分が何をして、また、何をしてはならなかったのか、客観的に理解できる方は多く、また離婚前の家庭崩壊直前のぎすぎすした状況でのやり取りから解放されているため、短時間の面会の中で問題言動に走るほど感情的になることはまず見られません。それでも不安であれば、家裁の面談室やFPICのような第三者の立会の下で段階的に実施すればいいのです。
 また、時期が過ぎても、冷静になれずに、自己の考えに頑なな場合には別の意味で親のケアが必要と判断されるわけで、それを先行させ、効果が見られた段階で、面会を実施すれば済むはずです。

 これに対して、外国の面会交流の研究で、面会交流によって同居していない親を嫌いなったケースが多いとの結果が出たから、そもそも面会交流は意味がないのではないかとの意見があるようですが、この意見こそ、子どものための面会交流との視点が欠如している考え方であると思います。
 養育監護する親に理解がある子であれば、その親に感謝する反面、同居していない親をどうしても否定しがちなるのは当然で、それはそれで、片親での子育てがうまくいった結果だと思いますし、そうでない場合には、その子にとって、同居しない親の存在は、救いになるということだと思います。
 子にとって、親は手本にも反面教師にもなりますが、その存在がなければ親になった時に、親がわからないことになるわけで、個人的には、両親との接触は、子が将来行うであろう次世代の子育てのためにも必要だと考えます。

 子の面会交流は、子の養育環境の形成、子の精神的発達の見地から、検討すべきであり、短期的な視点に立って、養育する親の意見に従うあるいは、日常生活を円滑にするためには養育する親に従うしかない子の、その場での言動だけに注視して、子の面会交流の実施の有無を決するのは、いい結果を生むとは思えません。
 子どもはえてして親の反応に敏感なため、離婚に至った元配偶者への嫌悪感を先入観として植えつけると、面会はうまく行きません。この場合には、養育監護する親の認識を変えることが、一番の解決策です。
 つまり、離婚とセットとなる面会交渉権が制度的に確立していること、その制度趣旨は長期的な子の健全な育成を目的としていることを理解してもらい、面接が子の負担にならないよう、子に事前に働きかけるのが一番の解決策です。
 離婚したから親子であっても一生の縁を切るという考え方は、父または母の代わりとなる存在がいればいいでしょうが、核家族化が進行した現代では、その受け皿となる存在がいないことの方が多く、現実的ではありません。

 長期的な子の健全な育成の視点に立って、よりよい養育のために、面接交流の原則実施を貫いてほしいと思います。
 子どもの精神状態、感性は、身近な大人に影響されることは明らかです。子ども中心の面接交流という理念はいいのですが、長い視点、広い視点での判断も欠かせないことを理解したいところです。

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