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時事問題 : 私のマンガ考 
投稿者 : admin 投稿日時: 2009-08-22 (770 ヒット)
人は、それぞれいろいろな趣味があるわけですが、マンガ好きに、冠せられる言葉は「オタク」でしょうか。
何を隠そう、14歳位から18歳位まで、私が3度の食事よりも凝っていたのが、マンガです。小遣いをつぎ込むのは当然ですが、時間があれば、また時間がなくても時間を作って、本屋や貸本屋に足繁く通ってました。
こんなに凝っていては、学業の成績など推して知るべしで、司法試験に合格にしたのは、20歳くらいに惰性で続いたマンガ熱が去ったのが、大きな要因なのかもしれません。

私は、そういう経緯がありますので、何かにのめり込むということに関して、寛容な方だと思います。

なぜこの時期に、マンガ考なのか。
世論は、8月30日の衆議院議員選挙の話題で盛り上がっています。
日本を代表するマンガ文化を盛り立てようとする「マンガ喫茶」もどき施設の建設計画が、この政権交代があれば、頓挫の危機にあり、再び「オタク」扱いに逆戻りする前に、マンガの文化としての芸術性を再考できればと思い、項をもうけました。

マンガは、文字通り、現在にあっては大衆文化の象徴であり、日本が誇れる文化の一つです。
特徴を挙げるとすれば、私は以下の点を挙げたいと思います。

特徴1 情報量
  マンガと活字文学の最大の差異は、その情報量の多さです。
  マンガは、吹き出し、ト書きにより、活字と絵をうまく組み合わせることにより、活字文学とは桁違いな情報伝達量を可能にさせます。これはマンガの最大の特徴です。
  
  簡単な例で言えば、マンガ日本の歴史(学研)は、かの往年のベストラー中央公論社の「日本の歴史」(今は中公文庫から出ています。)なみのマニアックな記述が随所に見られ、小中学生向けの歴史本の中では、一番詳しい内容だと思います。
  歴史本が本文、挿絵、説明の組み合わせで語るものを、ト書き、吹き出し、動く人物画、背景を組み合わせ、効率よく、時代の特徴、考え方、風俗、文化を伝達することを可能としています。

  ちなみ、アニメ文化とマンガ文化は、似て非なるもので、完全に一致するものではありません。アニメファンとマンガ好きも、微妙に違います。
  私がここで、問題にしているのは、欧米やメディアを通じて盛り上がっているアニメ文化ではなく、主にアジア圏で、吹き出しとト書きが地元言語に翻訳されて、日本の書店並に、市中の本屋の本棚の一部を占拠する象徴的な光景で特徴づけられるマンガ文化のことです。
  
特徴2 画像情報の普遍性
  一般に、ノーベル文学賞を欧米圏以外の作家が受賞するには、いい翻訳により、問題とするテーマに、欧米人が共感できることが条件であると言われます。

  活字文学・文化では、文字には現れない、行間の雰囲気をきちんと翻訳しようとすると、非常に難しく、それは文字を正確に翻訳するのでは駄目なわけで、文化的、歴史的、風俗的背景を踏まえつつ、翻訳する言語の中で一致する表現を選んで使う必要があります。
  いい翻訳は、うまい意訳というわけです。

  ところが、画像情報、特に登場人物の動き、日常的な光景は、見れば誰しもわかるわけですから、必ずしも、「いい翻訳」がなければ受け入れられない訳ではありません。
  少女マンガの真骨頂である精細な人物描写は、ある意味万国共通なわけです。もちろん、世界は広く、特定の行動に対する定型的な反応・対応行動は、地域が違えば様々ですから、文化がかけ離れると共通性はなくなりますが、ある意味、それは日本の文化の発現、異国情緒として、捉えられるわけです。
  その意味で、マンガ文化は受け入れられ易い素地があります。

  画像情報の普遍性を言うのであれば、更にその上を行くのが、アニメ文化です。
  成長期の子どもは、「当該文化圏」の文化に染まりきっていない関係で、異文化に寛容で、かつ、勧善懲悪をちょっとひねった程度の平易なストーリーには、日本文化の独自性を盛り込むことが困難ということもあり、普遍性があるので、世界文化の一つとなる可能性があるわけです。

特徴3 大衆文化として、活字文学では開花しにくいテーマが受け入れられること
  
  難しい表題ですが、要するに、子ども向けの児童文学や、極端に言えば、集英社のコバルト文庫より、泥臭い日常が当然のように受け入れられるのは、マンガの特徴です。
  たとえば、私的には、昭和60年代の頂点的作品の一つとして、紡木たくの作品を挙げたいのですが、この人の作品は、登場人物は中学生や高校生で、ほぼ全員制服で、不良がかっているがアウトローというわけでもなく、ストーリー的には活字文学的な話題性はなく、平凡ではありますが、何をおいても、登場人物の表情のかき分けとその綺麗さ(同じ描写の的確性でも、大友克洋のような感じではない)には、他の追随を許さず、大変人気がありました。
    
  ただ、皮肉なことに、この人の芸術性は、大衆(具体的には小中高校生の読者)には、逆に「マンガは難しい」(行間を読みにくい)と受け入れがたくなり、折原みとなどの少女小説家のブームにつながりました。
  
  かくいう私は、当然ですが、紡木たくはほとんど読破し(たぶん、最後の頃は、別冊マーガレットそのものを読まなくなったので、全部読んではいないかも知れません。)、読むたびに感心した記憶があります。口では言えない、情景は誰しも持っているものですから。

  更に、マンガでは、活字文学では、およそ受けないであろう、戦中戦後や、明治大正を題材にしたもの、中国大陸を題材にしたものが、結構あります。
  そういう意味では、私の大陸ロマン嗜好は、里中真智子、大和和紀などの大御所の作品と、森川久美などLaLaの作家から生まれました。作品暗めですが森川久美も、当時刊行されて全作品読破してます。
  活字文学として、あまり目にしない、大正、昭和初期の大衆の一断面を、確かな形で、伝えているという意味で、ここら辺の分野のマンガは、普遍性はないですが、マンガ独特なものと考えています。

  とかく、マンガは、作家と腕のいい編集者(アイデアを助言する)のチームで成り立つものと言われます。
  作品を下支えする編集者の存在を無視しては、語れないのでしょう。


2 文化保存として、望むこと

  さて、本題です。未だに世間では、マンガといえば、取るに足らない娯楽であり、芸術、文化ではないとの認識があります。
  それは、マンガが、リアルに根付く大衆文化であるから仕方がありません。
  例えて言えば、日本が誇る独自の絵画のジャンル浮世絵も、浮世絵が大衆生活に浸透していた江戸明治初期には、日本画として受け入れられず、浮世絵の芸術性が、欧米で評価され初めて日本で認知されたことからすれば、これは、やむを得ないことかも知れません。

  ただ、マンガは、それこそ、洪水のように巷に溢れ、よきマンガの絶版が日々行われているも事実です。神田の古書店街では、異様に古いレアマンガを置き、アマゾンでもかなりの本が手に入ると言っても、限界はあります。
  マンガ雑誌も今ではずいぶん様変わりし、廃刊も多いのです。  貸本屋も結構廃業が多いと聞きます。そこに行けば大抵のマンガ本が手に入ると言われていた柏の貸本屋もずいぶん前に、廃業と聞きました。
  
  膨大なマンガの消滅・散逸を防ぐため、マンガ本のマイクロ化と、閉架式での(マンガ喫茶がいいとはいいません。) 刊行されたマンガ本の保存を、どこかでやれば、いつの日か、芸術として昇華される日も来ると期待しているのですが。

  
  アニメでも同様に、全フィルムの保管が必要でしょう。有名なものでも、結構散逸しているとのことですから、これらの収集は費用をかけてもやる価値はあるのかも知れません。

 観光客を呼び込むことは、二の次にして、将来、マンガを、正当な文化に高めるために、適切な収集、保管を期待します。


 昔は、頻繁に本屋に行き、少しずつマンガを買い足していったものですが、最近は、お金に余裕があるので、大人買いをします。
でも、はまる程の作品には出会えていません。
 私自身は、絵画に例えて言うならば、国立西洋美術館にずらずら展示される名作よりも(と言っても、常設展(いわゆる松方コレクション)はかなり、いいものがあります。私は、ここで開催される特別展に劣らず、粒ぞろいだと思います。)、作家一人につき一点に出品数を限定しつつ、膨大な作品展示数を誇る日展で、自分の好みで、自分の気に入った作品を一つ見つける方がいいタイプなので、もう、はまることはないでしょう。

 最後にはまったのは、佐藤史生ですが、知りませんよね。今でも結構好きです。

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