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時事問題 : ちょっと怖い話・・・・因果応報?虐待を考える
投稿者 : admin 投稿日時: 2010-05-26 (4188 ヒット)
最近、幼児虐待の報道が、増えています。

 公園の野良猫に対して虐待をしても、場合によっては動物愛護法(動物の愛護及び管理に関する法律)により、警察のご厄介になるこのご時世に、ま、通常の感覚からすれば、「なぜ、我が子に虐待をするのか。あり得ない」という感想がほとんどだと思います。
 では、なぜ親は、虐待をしてしまうのか。

 経済的貧困、親の精神状態が虐待を産む一因であることは否定しませんが、いつの世にも貧困はあったわけで、これは決定要因ではありませんし、言い訳にしてはなりません。 

 一般的に考えられる理由として、親子関係に関する社会常識、認識の欠如にあるのではないかと思います。
 幼児の間の親子関係は、特に、社会とは隔絶した閉鎖された状態にあり、具体的には生協で買い物をしていれば、一日中外に出ずに、24時間子どもと一緒に過ごすことになります。ここに一種の絶対的支配の関係が生まれます。
 ただ、親子関係は、それだけではなく、「親以外に頼れる者を知らない。頼ることを知らない」という子の特殊性から、状況は、更に、一歩踏み込んだものになります。
 普通の社会的関係ではあれば考えられませんが、子どもは、特に幼児時期は、親に何をされても、それが終わると、すり寄ってくる、具体的にはそれでも親しみを持って親に接してくる子どもの方が圧倒的に多いのです。
 ここで親が、「この程度の加害であれば、許されるのではないか。現に子どもも自分になつき喜んでいるではないか」と認識するのであれば、それは大間違いです。
 この間違いをおかすと、加害は更にエスカレートし、子どもが死亡したり、取り返しのつかない心身面での悪影響を残します。

 子どもは、親の虐待、加害を容認しているのではなく、その子なりの環境適応能力を発揮して、その環境に適応するように脳が柔軟に対応しているだけのことです。
ところで、環境適応と環境順応は別の意味で使用され、環境適応とは一時的に当該環境に対処できる能力をいい、環境順応とは、それが一歩進んで、当該環境に対してより継続的に対応できる能力をいうようです。
 精神的に問題を抱えた子どものフォローが特に難しいのは、子どもが環境順応までしている場合ですが、親子関係についてはほぼ環境順応状態にあるといってよく、逆に、当該環境からの救出し、普通の環境下に置くことは、順応していた環境が突然なくなることに他ならず、問題ある環境下でその子なりに成立していた精神コントロール方法、解決・認識方法が通用しなくなり、精神バランスをなくし新しい環境になかなかなじめないわけです。

 わかりやすい昔話で言えば、ある村に、一人の物乞いが住み着き、村の不届きな乱暴者がその物乞いをいつもいじめてうさばらしをしていたところ、正義感の強い村の若者が、いじめるなと乱暴者を諫めたが、いつの間にか、村からいなくなっていた。物乞いは、乱暴者から被害を受ける反面、誰かから施しも受けていたが、乱暴者が乱暴しなくなったことにより、逆に施しをする者もいなくなり、村から去っていったという話が参考になります。
 若者が諫めた後の状態が、問題環境から救出された精神状態、諫める前のいじめと施しを受けていた状態が、救出前の精神状態に当てはめられます。もちろん、個々のケースによりバリエーションはありますが、殺されずに生き続けるのは、その子どもが虐待環境下で順応し、その子なり、親なりの「施し」を癒し・謝罪として位置づけ、多少なりとも関係修復を図っているせいではないかと考えます。
 
 この話の出典は忘れましたが、この手の類は、日本霊異記あたりに大量にありそうですね。
 日本霊異記は、怪奇ものの古典との理解の方が一般的かも知りませんが、あれはコンセプトとしては道徳を説く宗教本であることは間違いなく、しかも、当時の民間の風俗を題材にしているので、グロテスクな反面、示唆的な逸話も多い本だと思います。高校生のときに、読みましたが。

 で、本題です。
 さて、拒否できないという特殊性を持った、親子という絶対的な支配関係の中で、不幸にも環境順応し、成長した子どもは、結局のところ、親子間の加害について親和性(人を傷つけてはならないという道徳観を有していても、加害行為を容認しやすい傾向のこと)がある人になります。
 幸いなことに、子ども自身の別の人間関係の構築により、親子間の加害を容認してはならない、反面教師的理解が生まれる場合もありますが、反面教師というものは、親の否定が基礎にあります。親子関係の拒絶です。

 親が老いてきて、介護が必要となったとき、大人になった子どもは、自分の親に対しても、そのように扱うわけです。
具体的には、加害か、よくて排斥、介護放棄になります。
虐待する親は、この現実を理解しているのでしょうか。

 今どきは、長寿社会で「人生は、オムツに始まりオムツに終わる(シビアな現実ですね)」と言われている時代です。
 幼児期は、小学校に上がるまでとして7年間、介護は10年20年です。
 しかも、子どもと違って、老人は認知の程度によりますが、ある程度現状認識が正確にできるので、やられたことを正確に認識できる分、やっかいです。
 
 人間など脆いもので、長期間寝て体位の交換をしなければ、ひどい場合だと、背中の皮膚がどろどろに溶けたような状態になる褥瘡(床ずれともいいます)になります。自分で寝返りを打てなくなれば誰かに交換して貰うしかありませんが、放置されれば、簡単になってしまいます。ひどく痛く、不眠になるそうです。
 また、いくら、幼児と異なり大人の堅い皮膚と言っても、程度を越えオムツ交換をされなければ、これも、大変な状態になります。

 老人虐待は幼児虐待より、ある意味、目立たず、深刻で、老人の方が知能発達している分、苦痛も大きそうな気がするのですが。

 天網恢々疎にして漏らさず、因果応報 かも知れませんが、数十年後のことなど、誰も予測して行動しませんよね。でも、現実はシビアです。
  
 子が親に甘えるのは、子が親の行為を許しているのではなく、その子なりの本能として生き抜くためだけに環境順応しているにすぎません。これを間違えると、数十年後に、因果応報的に虐待被害者になるかも知れません。

 ぞっとしましたか。


 虐待に悩む親側の立場で、このホームページに行き着いた方へ

 子どもに愛情を持てずつい子にあたってしまう親ももちろんいます。
 わたしが、一番心に残っているエピソードを紹介します。
 その子の父親は、ささいな口実で子を日常的に殴っていたのですが、その子は後に、お父さんの思い出を聞かれた際に「(よく殴られたけど、良い思い出が全くないわけではない。)お父さんは、朝自動販売機でジュースをおごってくれた(から、いいところもあった)。」と言っていました。
 経済状況その他で、いろいろ難しい局面がありますが、この発言をさせる環境はどうなのという問題点はもちろんあり、文句の付けどころは山のようにあります。ただ、その子なりに、親と一緒に行動し、自分のために、ちょっとした気遣いをしてくれたということが、それでも、その子の記憶にきちんとインプットされる「良い思い出」になったのです。
 必要なのは、大げさなことではなく、日常生活で、子どもと一緒に何か作業をし、その際に、子どものためにちょっとした気遣いをすること、それらの積み重ねこそが、望ましい親子関係の構築につながるのだと、考えます。

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