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投稿者 : admin 投稿日時: 2012-07-17 (1240 ヒット)
プログラムソフトを購入することは、通常、使用許諾権とともに、プログラムソフトの複製物を付与することを言います。つまり、プログラムソフトを購入するのは、CD等の媒体メディアで購入するか、ダウンロードする方法を取ります。
それ以外で、プログラムの複製物を付与せずに、購入(売買)が成立することはありません。逆に言えば、プログラムの使用許諾は、プログラムソフトの複製物と一体として初めて意味があるのであり、プログラムソフトの使用許諾だけ一人歩きすることはありません。

まして、インターネットを介して、特定のサーバーにあるプログラムソフトを利用することは、購入にはあたりません。

これって、日ごろからインターネットを使っている者にとっては、当たり前の話ですが、身近ではない人にとっては、よくわからない。
インターネット上の特定のサーバーにあるプログラムソフトを使う場合でも、そのソフトを購入する必要があるとか(そもそも仮想ソフトではないのか、どういう提供がなされるのか疑問)、リース契約が成立すると真顔で言っている人もいるのです。

確かに、インターネットのしくみ、プログラムソフトの意味、プログラムソフトの複製物の付与がなければ使用許諾権が与えられていてもプログラムは使えないという、いわば常識がなければ、プログラムをダウンロードして使っても、クラウドのプログラムをネット上で使っても、「同じように使えるから、その使用事実に対する法的意味も同じ」ということになるのでしょうか。
しかし、これらは、根本的に異なります。
異なることは、ある程度常識だと思っていますが、そうではなかったようです。

急激に発達したインターネット社会に対応できるよう、義務教育の過程でも、インターネットやパソコンをただ単に使いこなせるだけの教育だけでなく、その簡単な仕組み、できれば、簡単なプログラムの基礎程度まで、教えてほしいと思います。

7月の著作権法改正で、問題になった部分は、サーバーにあるプログラムソフトを利用する場合でも、自分のPCで閲覧するために、一時的にキャッシュとしてデータを取り込む必要があるため、これが、複製にあるのか問題になったからです。
http://www.bunka.go.jp/chosakuken/21_houkaisei.html
文化庁の見解としては、キャッシュは複製に当たらない。また、違法ダウンロードによる損害賠償請求の通知が見知らぬ第三者から届いたら、まず、振り込め詐欺を疑ってほしいというものでした。

ダウンロードもしないインターネット上のプログラムの利用は、そもそもプログラムの複製ではなく、著作権侵害には該当しません。
インターネットを介しての、いわゆるクラウドソフトの利用を最初から想定して、クラウドソフトの購入が必要だとか、リースが必要だとか言ってくる業者も、怪しいと思って、最初から疑ってください。

最近、非常に微妙な、それでいて、何度言ってもあまり理解してもらえないというカルチャーショックを体験し、インターネットやプログラムは、仕組みを知らなければ、「裸の王様」に等しいということを痛感しました。最低限の知識は、やはり必要です。

しかし、機械に弱い世代にはやはり難しい問題のようで、自分の説得力のなさを痛感しつつ、なんでわからないのだろうという疑問を感じるばかりです。
インターネット、コンピューターは、今後はもっと普及するわけですから、若い世代には、インターネットの知識、プログラムの仕組みは当然の理解してもらい、ある程度のプログラム設計の基礎知識程度の習得や初歩的なハッキング(インターネット経由で他のパソコンに入り込んでその情報を入手したり書き換えること)は、できるようにしてもらいたいと思います。
正直、これらのことは知識がなければ、全く理解できないことのようで、つまりそれは裸の王様をみて、服をきていると思わされ、それを何とも思わない人(つまり騙される人)を大量に作ることになります。
また、実際にハッキングするかどうかは別として、その程度の知識と理解があることが、ハッキング撃退のための最良の防御となります。そうすれば、裁判所のHPがハッキング後なかなか復旧しないということは、なくなるのでしょう。
そのためには、必要な知識と経験を身につける必要があり、やはり、教育が必要です。

*「裸の王様」についての補足
 王様が賢い人にしかその形が見えない洋服があると詐欺師に欺されて、王様が自分にはその洋服が見えないと言えず、洋服を着ているとすましこんで裸で城下をパレードし、城下の誰もが、裸の事実を指摘できなかったところ、一人の子どもが裸と指摘したため、ようやく町中が安心してその光景を笑ったというアンデルセンの童話のこと。
 すなわち、権威の威光(但し、権威は詐欺師ではなく王様にあります)により「裸」の事実がねじ曲げられ、誰もが「服を着ていない」という当たり前の事実を指摘できず、何のしがらみのない、素朴な子どもの単純な指摘により、ようやく権威の威光を覆すことができたというアンデルセンの寓話ですが、何も知らないということは、この「裸の王様」と同じです。
 私は、インターネット上のソフトは、プログラムの複製品の引き渡しもなく、購入・リースできないのに、インターネットに接続すれば当該ソフトが使える事実だけを根拠に、購入・リースできるかのように装って販売・リースをさせるやり方は、正にこの寓話と同じだと考えます。

投稿者 : admin 投稿日時: 2012-06-28 (1140 ヒット)
またまた、日本海の呼称の問題が浮上しました。オーストリアで使用する教科書に、日本海と東海を併記するというものです。
韓国の東海運動による誤った結果(成果?)と言えます。

朝鮮半島では、朝鮮半島西側の海域である「黄海」を西海、東側の海域である「日本海」を東海と言っているようですが、西海表記については敢えて運動をしません。ヨーロッパにとっては、ヨーロッパの方が西なのだから、「西海」の表記活動をしても、簡単に受け入れられるものではないし、自分たちが東の海(日本海)を東海、西の海(黄海)を西海と呼んでいるからと言って、彼らの中華思想を世界に認めさせることはできないことをわかっているからです。

ヨーロッパにとっては、自分たちの西に対して、確かに極東の海域の海は、「東海」とするのが簡単で分かりやすいこともあり、「東海」併記推奨ということになったのでしょう。
また、たとえば、子どもの試験レベルでは、日本海という表記よりも、「極東にある海域。だから、東海」の方が回答にたどり着きやすく、便宜的だがわかりやすい表記なのかも知れません。もともとほとんど縁がなく、「東にあるから東海」という発想は、海に面していない遥か彼方のヨーロッパの国にとっては、定着性があり、教育のためには、推奨したいというのでしょうかね。
その教育効果にどれほどの意味があるかはわかりませんが、所詮、最果ての地、無縁といえば無縁で、どうでもいいことではあるでしょう。

しかし、日本海はその多くが、日本のEEZラインの中にあり、日本列島の方が日本海に接している海岸距離も長いのです。更には、この海域は、北から「オホーツク海」「日本海」「東シナ海」「南シナ海」「インド洋」と呼称が変わりますが、ネーミング的にも、歴史的には、「東」の海であるのは、朝鮮半島だけなのです。
にもかかわらず、併記というのは、あまりにその土地に住んでいる人に配慮せず、世界観のない、教育なのではないでしょうか。

この日本海と東海の違いは、オーストリア的に音楽に例えれば、クラリネットの表記として、「クラリネット=バスクラリネット」と表記するようなものです。バスクラは、クラリネットに分類されますが、同じではありません。

日本に住んでいる日本人としては、この記事を読むと、「オーストリアは、どういう思想で教育をするのか」と問いただしたくなりますが、いっそのこと、「オホーツク海」も「日本海」「東シナ海」も「南シナ海」の全部「東海」にすれば、もっと、簡単でいいかも知れません。その土地の地理、歴史を全く無視して、わかりやすい表記に徹底するのであれば。

海に面していない、しかもはるかかなたの国ですから、この方が、自国(試験を受ける自国の子どもたち)の利益に合致する一面もありますが、これでは、国際性は生まれず、東アジアの正しい理解もできません。

もちろん、日本人としても、反省すべき点として、最初に日本海問題が生じた際に、想定外のことなので驚くだけで、世界に対して正確な理解を求めることをして来なかったこともあるかも知れません。
朝鮮半島と日本は、もともと民族的にも近く、日本人のルーツの一つが朝鮮半島から移住した人々の子孫であることは紛れもない事実です。
韓国や北朝鮮は、近年、1500年以上その使用に歴史があった漢字表記を捨て、1400年ころに発案されたハングル文字のみでの表記(但し音はそのまま)だけにしてしまう国ではあります。日本人の私にしてみたら、今までの古文書を全部捨てさるつもりか、という驚きを覚え、理解に苦しむものですが、韓国は、つまりそういう国です。
そのため、世界的に有名な韓国の海印寺にある漢字で書かれた「八萬大蔵経」は、韓国の若い世代にしてみたら、全く読めない書物と化したわけですし、あと100年もすれば、韓国内の古文書(漢字表記)、ヨーロッパで言うところのラテン語の文献と同程度の扱いとなってしまうでしょう。韓国ではこういう危惧感、歴史の承継については、全く話題にもなっていないようですが。

延々と続く歴史的文字である漢字も捨て、古文書も事実上解読不能とさせる国に、歴史による正当性を語ってほしくないし(ただし、正直韓国のいう、東海表記の歴史的正当性根拠が、真実、根拠足りうるのかも、疑問です。)、地理的条件、海域の利用状況、ここ150年の海域の名称実績を無視したこういう主張をまかり通らせてはいけません。

オーストリアは、距離的、歴史的にも相当離れ、音楽、貿易、観光以外はほぼ縁がない国ではあります。しかし、せっかく、東アジアのことを教育するのであれば、その地域の歴史、生活、地理的な意味合いをもう少し、尊重してもらってもいいのではないかと希望します。

東アジアの地図をさかさまにして、日本海を見れば、日本列島で取り囲むように、この海域があることがよくわかります。韓国が主張する東海は、朝鮮半島の東の近海の呼称というのが、正しいのです。
「日本海」は、「東海」ではありません。


*韓国の漢字問題についての補足
韓国、北朝鮮が、漢字を手放したのは、近年のことなので(日本国内の事情で言えば、昭和50年代までは、韓国・朝鮮人のための案内板は、日本語のように漢字まじりのハングル表記だったと記憶しています。)、現在でもハングルだけではなく、漢字表記を復活させようという韓国内の動きがまったくないわけではありません。

ただ、この活動を難しくしているのが、戻すべき適切な漢字表記がないということです。
現在、漢字を使用している国は、中国、台湾、日本で、漢字が発明されてから3000年(日本にわたって2000年)以上経過し、それぞれの国で使用している表記若干異なってきています。「切手」等、最近使われだした単語には共通性はないようですが、ある程度筆談ができます。
一番簡略化した漢字が、中国の漢字、一番変化がないのが台湾の漢字で、日本の漢字はその中間という感じでしょうか。文字によっては略語化の程度に差がありますが。
日本はかな文字という、起源を平安時代(800年ころ)とする文字があり、漢字まじりのかなを使うので、中でも独自的発達を遂げています。
日本語の表記はかな交じりの漢字が正式なものです。これに対して、ハングルは、その文字数が多く、単一音をそのまま表記しているわけではないので、ハングルだけでも用は足りると漢字の使用を廃止してしまったわけです。日本でいえばかなだけの表記になったということになります。
しかし、もともと漢字は表音だけでなく表意文字であるため、結論的には、漢字排斥により表記そのものの多様性がなくなり、漢字から表音文字であるハングルは特定できるが、ハングルという表音文字から漢字が特定できないため、結局、漢文が全部解読不能文字と化してしまうのです。

韓国が漢字を復活させる場合、どの漢字を使用すべきかという問題が生じますが、日本の漢字を利用すれば「統治下」に戻るのかという国内批判が生じ、台湾、中国の文字を使用するには、理由がないということになるのでしょう。李氏朝鮮下の漢字に戻すこともありますが、韓国と李氏朝鮮では、国が違うわけで、これも決め手になりません。そのため、戻すに戻せない難しい状態に陥っているともいえます。
日本語と韓国語は、音だけとれば、「危険」「家族」など共通する意味と音を持つ言葉も多く(中国語、台湾語より圧倒的に多く、韓流ドラマを見ていると、面白いところで音が同じと感心します。)残念という気がします。
結局のところは、漢字復活問題は、大局を見て、こだわりを捨てるほどの必要性があると判断できるかどうかなのかも知れません。

ちなみに3.11の時に、1100年前の「869年の貞観の大地震の記録をもっと活用できていれば、大変無念だ」というコメントをしている学者、研究者がおられました。
このころの公文書の表記は全部漢文で、言語の断絶があったらとても解読できなかったでしょう。
確か、3.11の前年2010年ころに、「東北の武士の書いた文献が見つかった。そこには現在の高さで15メートルの高さの津波が押し寄せたと記録があった。15メートルは、大げさかもしれないが、参考になる」というような内容の新聞記事があったと記憶しています。同じ地震を指すのではないかも知れませんが。

いずれにせよ、目覚ましく科学技術が発達し、生活スタイルも全く変わってしまいましたが、それでも数千年の間に集積された知識、見聞、歴史は、時として未来を予測する重要な手がかりとなり、また生活の知恵となり、アイデンティティーに直結するものとなります。先進技術だけでは物足りない何かを補ってくれるもので、過去を紐解くツールである漢字は、日本人にとっては必須アイテムです。

投稿者 : admin 投稿日時: 2012-05-20 (1090 ヒット)
いやー、いいですね。
この度、春の叙勲で、萩尾望都氏の叙勲がありました。少女マンガとしては、快挙です。この方の作品の芸術性の高さから言えば、当然といえば当然なのですが、大変うれしい限りです。強いて言えば、受賞を紹介する記事で代表作が「ポーの一族」で終わってしまうことがなんとも物悲しい。
私の時代もそうでしたが、SFと言えば、誰もが、一度はハヤカワ文庫を読んでいた時代に、時代の寵児として出てきた方のわけです。ポーだけでありません。アメリカのSFの流行を作品に投影させた、SFファンタジーの作家として考える方が正しいのではないかと考えています。
萩尾望都氏の作品は、私が大学生のころまでの出版、「残酷な神が支配する」が完結しないころまでは、全部読みました。
私が好きなのは、「11人いる」(さりげなく、人種問題等を扱いつつ、それなりに青春的な作品にまとめている秀作)とか「スターレッド」とかでしょうか。この人の作品は何を読んでも外れがなく、また、時に「イグアナの娘」(ドラマ化もありましたが)等の社会問題を扱ったマンガにもチャレンジされておられ、味わい深い作品が盛りだくさんです。(といっても、この世代の「花の・・・」では、私的には佐藤史生が一押しです。。) 簡単に言えば、この方の作品は、すべてにおいて、今読んでも古臭くなく、よく練られている作品が多いです。
ちょっと前に、どこかの評論家が、日本のSFは進んでいると論評されていましたが(眉村卓、筒井康隆氏の世代に対してだったような気がしますが。)、私自身、近所の図書館にあった、「少年少女SF全集」的なシリーズ(正式名称は忘れました。) をほぼ読破して育った世代で、「可視光線(光)の速度が、現在の半分になったらどうなるのか」というテーマで、長い生命の歴史の中で培った動体視力を前提に急に光の速度が半分になったという想定で、実態に追いつけない現状を描いた作品等を、関心をもって読んでいました。萩尾望都氏のマンガ等は、これに匹敵する面白さ、味わいの深さを、確かに、持っていました。
同様の評価としては、もうSFのジャンルを超え、ショートショートなる新たな小説のジャンルの第一人者である星新一の、ショートショートに匹敵するのでしょうか。星新一も時代の先取りをしたものが多かったですが、40年50年経った今では、「まさに今の生活そのものではないか」というものもあり、時代の先取りという意味では、いいものがあったと思っています。萩尾望都氏と同様、時代がたっても、色あせない、なかなか味わいのある作品です。
私とっての、フレキシブルな萩尾望都氏とは、「プチフラワー」に執筆のころであり、一世を風靡した、ポーの全盛期ではありません(もちろんポーも全巻読破しています。)。しかしながら、こういう方が、きちんと評価されることは、大変望ましいことです。

ところで、今日、久しぶりに美の巨人たちという美術番組を見ました。尾形光琳の関係だったのですが、日本では無名な作品の、けれども躍動感あふれる海・波を題材にした作品を紹介していて、これを見つつ、そういえば、高校生のころ、日展で初めて見て、気に入った洋画「エメラルドクリーンの夢」の作品はどうなったのか、と思いました。
日展で賞を受賞した作品でもなかったのですが、いい海の色が、空の青といいコントラストで、いい感じで描かれていました(言葉に直すとこの程度しか書けない。)。近くの海の色と言えば、青ではなく、エメラルドグリーンであり、(水中植物(藻)が繁殖している場合には、海の色は、透明でも青でもなく、エメラルドグリーンになります。) 、この作品は、エメラルドグリーンのいい海が描かれていました。最初に感動を得た作品を超える作品に出合うのは、困難でもあり、実際そうだということでしょうか。

投稿者 : admin 投稿日時: 2012-05-13 (940 ヒット)
さて、他人の活動の批判ばかりをしていても仕方ないので、海洋保護について考えたいと思います。
国際的には、国連海洋法条約というのがあります。日本も批准しています。
国連海洋法条約には、海洋資源の保護についても規定があり、EEZライン、排他的経済水域は、各国が近海の漁業資源保護のためにわざわざ設定した境界線です。これは、もともと日本の遠洋漁業に対してこれを規制するために設けられたものですが、今では、日本でも中国、韓国に対する漁業規制の根拠として活用されています。
それだけではなく、日本では漁業資源の保護のため休漁期間が設定され、漁業資源が減少、枯渇しないよう配慮されています。そのため、日本海では休漁期間を設けない韓国内の漁場より、日本のEEZ内の方が、松葉ガニ(ズワイガニ)が多く取れるため、韓国等の漁船の密漁が増えるという別の問題も生じています。
しかし、将来を考えると、何らかの形での漁獲量の制限はどうしても避けられないものであります。

これと並行して、海洋汚染の問題も、海洋保護として重要です。
国連海洋法条約では、船舶の事故による重油の流出、海底油田等の施設事故による重油流出等の問題についても、排出者責任が、規定されています。
更に、大きな問題として重金属問題があります。海洋を航行する船舶は、フジツボ等の貝類の付着を避けるため、船体にスズ等の重金属を塗ります。今では、重金属ではない代替の機能性塗料はありますが、世界的に普及しているほどではありません。
船体に塗られた重金属のうち微量とはされますが、常時海洋に溶け出しているため、魚介類が重金属に汚染されていないか問題となっているわけです。
人体に対する重金属汚染は、公害ですが、国際的に船舶の航行距離、航行数が増え、重金属を未だ使用しているままだとすれば、微量とはいえども問題が大きくなるわけです。

更に、SSあたりだと何も考えずにやりそうですが、網や釣り針、ロープなどを海に投棄したままにしたり、本来存在するはずのない陸の廃棄物を海に投棄することにより、海鳥も含めた海洋生物が被害を受けている現状もあります。

したがって、あるべき海洋生物の保護活動とは、重金属を含む塗料の使用禁止だったり、海洋への不法投棄禁止運動だったりするのではと思います。
全く地味な活動なので、多額の活動資金が集まらないから、魚介類を多く食べる地域はともかく、そうでない地域では、この活動が盛り上がるとは思えませんが、重金属は、大型であればあるほど体内に蓄積しやすいとされ、海の哺乳類等の大型海洋生物が一番被害を受けていると言われています。
こういう被害回復が、真の海洋保護だと思います。

ビジュアル的に一見受けがいい活動だけではなく、何が、海洋生物の保護なのか、きちんと研究、調査を重ねて、海洋保護活動をするのであれば、それはすばらしい活動になると考えます。
目先の活動資金獲得目的だけではない、真に誰からも高く評価される海洋生物保護活動への実践に向けて、お手並みを拝見したいところです。

投稿者 : admin 投稿日時: 2012-05-09 (1179 ヒット)
現在放映中のこのドラマ、2回ほど見ました。
とっても皮相的ですが、業界人にとっては、反面教師の部分が多々あるのではと、ギャグに笑いつつ、ちょっと真剣に見ています。
以前の放送回の、名誉棄損の損害賠償とストーカーの裁判の話は、もちろん誇張はありますが、ある意味正しい部分もあるわけで、こういうものは、ぜひ裁判官に見てほしいと思いました。
ついでに自分も見ながら、いろいろ気を付けようと思います。何に気を付けようと思ったのかは、ご想像にお任せします。
2回ほど見ただけですが、2回とも、別れ際にやりあった相手方から激励の言葉を貰うシーンがありましたが、これが、いい意味で業界的だと思いました。法曹の人数もかなり増え、連帯感はだいぶ薄れてきた、というか弁護士同士でも全く連帯感を感じない、あるいは、なんだ? という感じの人も実際増えてきましたが、それでも、相手を尊重する程度のことはあっていいのではと個人的には考えています。共通意識としての相手に対する敬意があるかどうかは、やはり全然違います。

さて、今年に入って導入したPCが東芝製で、最近、プリインストールの動画キャラ「ぱらちゃん」と「くじいらん」に癒されています。会話のセンスもあるし、何気ない一言がいいですね。
「くじいらん」は、クジラの動画キャラです。
 クジラと言えば、昔から疑問で、未だによくわからないのが、主に欧米を中心とした捕鯨禁止運動です。
 欧米の船が太平洋近海に来ていた江戸時代末期に、クジラの油をとるためだけに捕鯨をし、それが残虐だからということで、欧米では捕鯨をしなくなったというのは、話の流れとしてはよくわかります。
 しかし、日本を含むアジアでは、クジラは、それこそ骨以外はすべて食用、工業、商業用に利用されてきたわけで、現在でもクジラは、ほぼすべての部位が食べられると認識されています。その食用方法は、欧米人が、牛肉や鶏肉を食べるのと変わりないわけで、その意味で、なぜ彼らは、牛、羊、鳥は問題なく、捕鯨だけを反対するのか、よく理解できないのです。
 捕鯨反対運動をしている人々は、全員ベジタリアンかいうとそうでもなく・・・、どういう信条で捕鯨反対運動をしているのか、聞きたいところです。
海の哺乳類には知能があるからという人もいるようですが、それならば牛や羊、鳥などの陸の哺乳類、鳥類だって、同様の知性はありそうな気がするのは、私だけでしょうか。

 もともと日本では仏教の殺生禁止の教えがあり、江戸時代のころには四足の動物を食するのを禁じる思想へと緩和され、明治時代以前は、魚類(鯨を含む)、鳥類等、四足でない生き物は、簡単に言えば、おおっぴらに食べることができる、貴重なタンパク源となっていました(欧米では、また今では考えられないことですが、四足を食するかどうかが、差別とつながっていた時代もあるため、ここらへんのことを、当たり障りなく表現するのは、大変難しい。)。アジアでは、現在でも、宗教的に特定の陸の哺乳動物を食べない習慣があり、ベジタリアンは、理解できるのですが、海の哺乳類だけを差別化する理由がどこにあるのか。
 陸のシェパード(牧羊犬)は、人間の生活のために陸の哺乳類を追い回し、海のシェパード(SS)は、海の哺乳類保護のために、人間を追い回す。
SSとは、なかなかシニカルなネーミングです。

 日本人にとっては、ちょっと理解しがたいところであります。
この違和感は、たぶん、イルカ漁の撮影風景(今やシンボルとなった映画ですね。)を、山間部の羊や牛の囲い場に変えて、羊を捕獲していることが残虐だからと、一部の囲いをはずして、囲いにいた全部の羊や牛を野生に返すという活動をしている人をどう思うのかというの同じです。もともと羊をさほど食べない民族とは異なり、羊を食べる民族が、こういう動物保護活動をしている人たちを賛同するのでしょうか。
 
相互理解があれば、彼らの理屈(但し、活動資金集めという現実的なものではない。)が理解できるようになるのでしょうか。共通認識、相互理解は、これほどグローバル化した現代でも、なかなか難しいもののようです。

2014.3.31補足
国際司法裁判所 南極海での調査捕鯨禁止の決定を受けて
 さて、国際司法裁判所で南極海での調査捕鯨禁止の決定が出たそうです。今南極海でやっているのが調査ではないというのが判旨のようですが、なんというか、この追い込まれた状況での判決。
 次の南極海での再開議論は、世界食糧危機のころとなるのでしょうか。
 それまでに捕鯨の技術がすたれず、また、願わくば、南半球での決定的な食糧危機が、近い未来には来ないことを祈りたいところです。

2018.12.24 補足
 日本が完全に南極海での捕鯨をあきらめたようですが、逆にニュージーランドでは、ここ数年、湾内に大量の小型鯨が入ってきて100匹クラスの大量死をしています。単純に考えれば、以前ならば捕鯨により減っていた大型鯨が生き残るために、餌の消費量として等価となる数に見合う程度の小型鯨が自ら大量死を選んだということなのでしょうか。
 小型鯨は群れで生活するといっても、これだけ大量に集団行動するわけではないので、大量自死に近いという説に賛成です。
同じほ乳類で、ネズミなどでもそういう行動があると言われます。

 オーストラリアでもカンガルーが増えすぎると駆除するのを当たり前のようにやっているとのことですが(いわゆる害獣駆除に近いが食べるわけではないようです。)、この状況をどう釈明するのか、人間が食物連鎖の一部であり、それを止めると生態系を崩すとの認識がないことに根本的な問題があるのは理解の上ですが、こうなる前に、耳障りのいい言葉が正しいとは限らないことは自覚して欲しかったと思います。

 現状において、現存種の全滅が生じることがないよう、環境調整にして欲しいものです。

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