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投稿者 : admin 投稿日時: 2010-10-19 (1439 ヒット)
使い古された言葉ですね。私が、修習生だった16年以上前に、検察講義で「検察組織の意義は、巨悪は眠らせないところにある」と第一声の話がありました。

今回の郵便事業をめぐる無罪事件で特捜部の印象は悪くなった上、最高検は、改ざん事件を大阪地検特捜部全体の責任とするようです。
特捜部長、副部長が逮捕起訴されたら、現在のポストは別の人が就任しているとしても、ほとんど死に体の数年を歩みそうな感じですね(もちろん、地道な調査は、数年掛けてのことですから、仕事は減らないのでしょうが)。

まー、いろんな人がいろんなことを言っているわけで、私がコメントする必要もありませんが、敢えてコメントするならば、「『巨悪を眠らせない』を忘れずに」ということでしょうか。
我が国の起訴事件の有罪率は今でも95%以上を誇っており、無罪を立件したことに、世間からの目も冷たいでしょう。
更に、なぜ、有罪証拠でもないものに、改ざんをということもあるのでしょう。

しかし、常識的に考えて、国家公務員の係長が、自分には何の利益もないのに、独断で刑事罰ものの文書偽造をするはずがありません。また、いろんな意味で大物の方々が、下っ端の役人に直々に声掛けをするなんてことはないのです。
誰を共同正犯で持って行くのか、どこまで立件するのか、誰を対象とすれば手堅いのか、微妙な中で、正しい情報を見誤ったところはあるのでしょう。時効の壁もあったようですし。
ただ、それでも、「巨悪を眠らせない」組織があってもいいと思います。

改ざんはもちろんいけませんが、これからも、事件を丸めずに、果敢に真の主犯に挑戦していって欲しいところです。
有形無形の脅迫、圧力に屈してはいけません。また立件の形式的手堅さだけで、処理してもいけません。
自戒したいところです。

投稿者 : admin 投稿日時: 2010-08-25 (706 ヒット)
円高が続いています。
通常だと、これだけ変動すれば、日銀のドル買い等積極的な市場介入がニュースになりますが、今回は、財務相の「口先介入」失敗がニュースになるなど、日銀が全く動かない状態になっています。日銀関連のニュースといえば「誰それの談話」程度でしょうか。

日銀は、1998年の日本銀行法の改正により、日銀が政府から独立性のある機関となりました。
ただ、それでも、日本銀行法第1条にあるように、日本銀行は、我が国の中央銀行として、銀行券を発行するとともに、通貨及び金融の調節を行うことを目的とする、機関なはずです。
いくら政府から独立したとしても、「何もしなくていい」ことにならないし、もちろん、「研究」という名で指をくわえて様子をみるだけで責任を取ったことにはなりません。
そろそろ、「口先」だけではなく、「金融手法」を用いた「あたり前の介入」をすべき時期なのではないでしょうか。

現在、日本は世界一の債権国と統計上なっているようです。
私が日常的に関与するところでは、債権は、我が国の超低金利政策が継続している関係もあり、現地建て、あるいは、ドル建ての比率が多いと思うのですが、これだけの円高で、債権回収額がかなり目減りしています。
具体的には、年金の運用利回り(絶えず運用をしなくてはならず、短期的一時的に円高を狙って現地建てで巨額投資をすることができないので、円高は逆に、国内での運用利益が大幅に消滅することになります。)、機関投資家の運用利回り、身近なところで言えば、投資信託の運用利回りも全体的にかなり悪くなっています。

1ドル110円を切った頃から、円高で輸出産業が頭打ちになってずいぶん久しいかも知れませんが、ある意味、世界一債権回収で利益を上げるべき国(世界一の債権国とは、そういうことですね。)が、その回収額がかなり減るというのは、本当は国内全体が深刻に受け止めなければならないのです。

金融政策が財政政策と同列に、2大経済政策と位置づけられるのは、世界経済が発達した中では、国内国外の金融政策に目を光らせなければ、経済政策がうまくいかないことと関連しています。
残念ですが、両輪の経済政策の一つが全く機能していないようです。

日銀に求められる、「通貨及び金融の調節における自主性」「国民に対する説明責任を果たす」(日銀法3条 日本銀行の自主性の尊重及び透明性の確保)は、当たり前のことですが、「何もしなくても許される」理由にはなりません。

投稿者 : admin 投稿日時: 2010-07-25 (795 ヒット)
先日、奈良の県立病院に勤務する産婦人科医2名が、7000万円あまりの残業代等を求め提訴し、また警察に対して労働基準法違反で刑事告発をしたという記事がありました。
残業代等の時効は2年間。つまり2人は、平均で2年間で3500万円あまりの残業代があったことになります。おそらくこの人にの年収は1000万円から1500万円くらいで、県立病院だったこともあり、給与体系が明確でないまま、1500万円の年間給与が1日8時間労働の対価との前提で、請求をした結果と思われます。

この事件を教訓に、今後、勤務医師の給与体系を見直すのでしょう。当直がある場合には、当直時間の全時間が拘束時間で、たとえば夜間一度も呼び出しがなく寝ていたとしても、給与の支払い対象となるため、下手すると、逆算すれば、年収1000万円以上の場合でも、基本給は21万円程度ということに実際上はなります(実際にはそうなのです。)。

良くも悪しくも、こういうケースが出てしまったのですから、公立病院においては、労働者としての医師の労働契約書の締結をしなければなりませんが、無理のできない壮年医師は、長時間勤務には耐えられませんから、逆に給与が極端に下がる結果にはなります。
訴えた医師らが、そこまでの結果を理解していたかどうかは別ですが。

年俸制の給与体系で、残業代を請求するのはあまりありません。
そもそも、我が国において、医療は保険制度で成り立っているもので、勤務医一人一人に年間2000万円以上の報酬を支払っていたら、明らかに、保険医療制度が破綻します。
制度のほころびが見えてきた保険医療制度ですが、保険医療制度ができるだけ延命されるよう、医療費の大きな部分を占めすぎる人件費削減に、医療関係者が自戒をもって、対応しなくてはなりません。
病者は経済的弱者であることが多く、病者相手の医療事業において、保険医療制度の存続は、医療事業の経済基盤の確立を図る上で不可欠の問題であることを再認識すべきです。

投稿者 : admin 投稿日時: 2010-06-16 (790 ヒット)
今回は、その3として、種、苗について書きます。

 我が国には種苗法という法律があり、農業の特許法のような法律で、品種改良した種苗の権利を保護しています。著作権法などは、ベルヌ条約という条約で、全世界的にほぼ同内容の著作権の権利が保護されることになりますが、国際法分野では、植物の新品種の保護に関する国際条約(但し批准国は多くない)で保護されます。
 しかし、この種苗法というのは、パテント関係を取り扱う上では無視できず、私もざっとですが、この法律に目を通したことがあります。

 日本の場合には、品種改良は農業試験場が先行し、地域性のある新品種の改良、販売普及により、地域農業活性化の牽引役として期待されているところではあります。
 米、トマト、メロンにしても、なんでここまで、いろいろあるのという位、同じものでもいろいろあって、味も違いますよね。

 さて、日本の強みは何かといえば、味覚の細かさにあると思います。
 欧米に比べ、抵抗なく、また残すところなく、様々なものを食材として開発できること(ツバメの巣を食材にする中国ほどではないかもしれませんが)、それに相応した味覚を持っていることは、いろいろな品種を改良していく上で、不可欠の要素です。
 
 もっとも、味覚の細かさだけで世界的に成功するのかと言えば、そうではなく、地域性という難問があります。
 味覚、色彩感覚は、民族性、地域性があり、感じる刺激が微妙に異なると言われています。つまり、その土地に根付いた文化に由来するというだけでは解決できない、地域ごとに受け入れられる味覚があり、日本人がいいという味と、その地域の人がいいという味は必ずしも一致しません。

 たとえば、日本で有名なフランス料理のフランス人シェフも、日本では、微妙に日本仕様に合わせた味付け、盛りつけにして、料理を出し、評価を得ているというのがその例です。もしかしたら、そのフランス人シェフにしてみたら、何で日本人はこんな味を好むのだろうと思っているかも知れません。
 世界中どこに行ってもある料理店は中華料理店だそうですが、中華料理店と一口に言っても、台湾に観光に行けばわかりますが、広東料理だけでなく、十以上の種類(料理品目はもっと多い。)があります。日本の中華料理店に置いてあるメニューは、そのうち、日本人の味覚に合う中華料理がセレクトされているということになのでしょう。

 その地域性にあった味覚にベストマッチした商品があると、商品は爆発的に売れます。過去に実際にあった例としては、香辛料と紅茶でしょうか。
 香辛料も紅茶も、それが生産、輸出されていたがために、植民地化など不幸な歴史を負うことになった国もありますが、例え、その地域では、全く生産できないものであったとしても、食生活に必要不可欠となり、常時輸入しなければならない農作物はあるのです。

 販売ルートを確保し、輸出農作物として確固たる地位を占めることができれば、安定供給することができます。
 その地域でしか取れない非常にレアな農作物が開発され、それに恒常的安定的ニーズが確保されれば、農業の営業としては軌道に乗ります。
 理屈はこうですが、私にも、一体どんな商品があるのか、想像つきません。

 さて、最後に農林業の効用をひとつ。
 引きこもりが今社会問題化しています。引きこもり対策として、ペットを飼うなども有効とも言われていますが、植物の世話をすること、収穫の楽しみもある点からミニ農園で作業することも、いいのではと考えます。
 何がいいのかと言えば、農作業はただ黙々と作業をすることがメインなので、対人関係に煩わしさを覚えている人に適しているし、収穫の質量を高められるため、技術も磨け、向上心もつき、また自分が世話をしなければ枯れてしまうのですから、張り合いも出てくる点です。
 引きこもりの人が、授産施設(通常はサービス業、製造業の軽作業が多い)に行っても、また対人関係で悩む人もあり、そういう人にはお勧めの作業ではないかと思うわけです。
 短時間でもアウトドアで黙々と作業するのは、慣れてしまえば、それなりに気分転換になります。引きこもっている人の方が、逆に、黙々と作業をするのに抵抗がない人も多く、そういう人には向いている作業です。

 ただ、一つ問題があり、土に対する抵抗というか、簡単に言えば、「手が汚れる」から始まる発想が先に立つのであれば、難しいでしょう。農作業は小さい頃に自宅の庭先のミニ農園でもいいですが、生産現場を実際に見て体験せずに、成人してから農作業をするのは難しいです。
 農林業、漁業、製造業など、いわゆる3kの職場に対する偏見をなくすため、学齢期に実習体験をすることは、結構有用なのではないかと思います。
 私としては、鳩山政権が実施した高等学校完全無償化よりも、小学校、中学校の義務教育を充実化させ、義務教育の中で、社会に出て必要な教育知識をどの子にも習得させ、だらだらと義務教育の補習をするような高等学校の存在を不要とする教育システムを作っていくべきだと思うのですが、いかがでしょうか。
 我が国の歴史的に見て、たとえば、在原業平、西行といった高等遊民は非労働者階級の特権でした。今では、非労働者が、引きこもりという名称でどの社会階級層にも存在しています。
 インテリ社会が成熟した結果がこれかも知れませんが、もう一度、生産とは何か、社会経済循環が成立する有効的な労働とは何か、そういう労働者を育てるために、どういう教育が必要なのか(受験社会のエリートのいう、ゆとり教育とは違います。)、再考すべきと思います。社会の大半の人は、何らかの形で労働をしなければならず、労働者の期間は、人生の大部分を占めるわけで、適切な労働体験、労働認識を育てる教育なくしてする教育は、果たして必要なものなのか、疑問です。

 なんだかよくわからないまま、学校の教育だけおざなりに受けて社会に放り出され、そのまま失業、精神をわずらい、そのまま一生生活保護というパターンが実際に増えているのですが、これも、その人にとっても、社会にとっても、結構大変です。
 低賃金外国人が増えている現状では、従前の公共事業を増やせば、失業者を吸収でき、雇用が生まれる構図は成立しなくなっています。その意味で、ハコから人に対する施策の方向転換は正しいのですが、生活保護受給世帯、あるいはホームレス世帯を対象とする雇用創出、労働により社会経済の循環の活性化を実現する施策について、知恵を絞る時期に来ています。

 私としては、このような労働者層の雇用若しくは授産施設の設置により、耕作放棄地の活用による輸出農作物の生産をするとか、町工場に、雇用奨励金をつけ生活保護対象者を雇用させる(人件費の補助を弾力的にすることで、町工場の製品に価格対抗力をつけ、かつ、生活保護費を削減する)なども検討の余地があると思うのですが、どうでしょうかね。

有効性ある社会保障費の削減は、絶対に必要です。


 私なりに、破綻について長々と書いてきましたが、難しい問題です。誰か(?ではないのでしょうが)がもっと知恵を絞り、ある程度の期間をかけて実効的施策を進めるしかないでしょう。

投稿者 : admin 投稿日時: 2010-05-26 (4197 ヒット)
最近、幼児虐待の報道が、増えています。

 公園の野良猫に対して虐待をしても、場合によっては動物愛護法(動物の愛護及び管理に関する法律)により、警察のご厄介になるこのご時世に、ま、通常の感覚からすれば、「なぜ、我が子に虐待をするのか。あり得ない」という感想がほとんどだと思います。
 では、なぜ親は、虐待をしてしまうのか。

 経済的貧困、親の精神状態が虐待を産む一因であることは否定しませんが、いつの世にも貧困はあったわけで、これは決定要因ではありませんし、言い訳にしてはなりません。 

 一般的に考えられる理由として、親子関係に関する社会常識、認識の欠如にあるのではないかと思います。
 幼児の間の親子関係は、特に、社会とは隔絶した閉鎖された状態にあり、具体的には生協で買い物をしていれば、一日中外に出ずに、24時間子どもと一緒に過ごすことになります。ここに一種の絶対的支配の関係が生まれます。
 ただ、親子関係は、それだけではなく、「親以外に頼れる者を知らない。頼ることを知らない」という子の特殊性から、状況は、更に、一歩踏み込んだものになります。
 普通の社会的関係ではあれば考えられませんが、子どもは、特に幼児時期は、親に何をされても、それが終わると、すり寄ってくる、具体的にはそれでも親しみを持って親に接してくる子どもの方が圧倒的に多いのです。
 ここで親が、「この程度の加害であれば、許されるのではないか。現に子どもも自分になつき喜んでいるではないか」と認識するのであれば、それは大間違いです。
 この間違いをおかすと、加害は更にエスカレートし、子どもが死亡したり、取り返しのつかない心身面での悪影響を残します。

 子どもは、親の虐待、加害を容認しているのではなく、その子なりの環境適応能力を発揮して、その環境に適応するように脳が柔軟に対応しているだけのことです。
ところで、環境適応と環境順応は別の意味で使用され、環境適応とは一時的に当該環境に対処できる能力をいい、環境順応とは、それが一歩進んで、当該環境に対してより継続的に対応できる能力をいうようです。
 精神的に問題を抱えた子どものフォローが特に難しいのは、子どもが環境順応までしている場合ですが、親子関係についてはほぼ環境順応状態にあるといってよく、逆に、当該環境からの救出し、普通の環境下に置くことは、順応していた環境が突然なくなることに他ならず、問題ある環境下でその子なりに成立していた精神コントロール方法、解決・認識方法が通用しなくなり、精神バランスをなくし新しい環境になかなかなじめないわけです。

 わかりやすい昔話で言えば、ある村に、一人の物乞いが住み着き、村の不届きな乱暴者がその物乞いをいつもいじめてうさばらしをしていたところ、正義感の強い村の若者が、いじめるなと乱暴者を諫めたが、いつの間にか、村からいなくなっていた。物乞いは、乱暴者から被害を受ける反面、誰かから施しも受けていたが、乱暴者が乱暴しなくなったことにより、逆に施しをする者もいなくなり、村から去っていったという話が参考になります。
 若者が諫めた後の状態が、問題環境から救出された精神状態、諫める前のいじめと施しを受けていた状態が、救出前の精神状態に当てはめられます。もちろん、個々のケースによりバリエーションはありますが、殺されずに生き続けるのは、その子どもが虐待環境下で順応し、その子なり、親なりの「施し」を癒し・謝罪として位置づけ、多少なりとも関係修復を図っているせいではないかと考えます。
 
 この話の出典は忘れましたが、この手の類は、日本霊異記あたりに大量にありそうですね。
 日本霊異記は、怪奇ものの古典との理解の方が一般的かも知りませんが、あれはコンセプトとしては道徳を説く宗教本であることは間違いなく、しかも、当時の民間の風俗を題材にしているので、グロテスクな反面、示唆的な逸話も多い本だと思います。高校生のときに、読みましたが。

 で、本題です。
 さて、拒否できないという特殊性を持った、親子という絶対的な支配関係の中で、不幸にも環境順応し、成長した子どもは、結局のところ、親子間の加害について親和性(人を傷つけてはならないという道徳観を有していても、加害行為を容認しやすい傾向のこと)がある人になります。
 幸いなことに、子ども自身の別の人間関係の構築により、親子間の加害を容認してはならない、反面教師的理解が生まれる場合もありますが、反面教師というものは、親の否定が基礎にあります。親子関係の拒絶です。

 親が老いてきて、介護が必要となったとき、大人になった子どもは、自分の親に対しても、そのように扱うわけです。
具体的には、加害か、よくて排斥、介護放棄になります。
虐待する親は、この現実を理解しているのでしょうか。

 今どきは、長寿社会で「人生は、オムツに始まりオムツに終わる(シビアな現実ですね)」と言われている時代です。
 幼児期は、小学校に上がるまでとして7年間、介護は10年20年です。
 しかも、子どもと違って、老人は認知の程度によりますが、ある程度現状認識が正確にできるので、やられたことを正確に認識できる分、やっかいです。
 
 人間など脆いもので、長期間寝て体位の交換をしなければ、ひどい場合だと、背中の皮膚がどろどろに溶けたような状態になる褥瘡(床ずれともいいます)になります。自分で寝返りを打てなくなれば誰かに交換して貰うしかありませんが、放置されれば、簡単になってしまいます。ひどく痛く、不眠になるそうです。
 また、いくら、幼児と異なり大人の堅い皮膚と言っても、程度を越えオムツ交換をされなければ、これも、大変な状態になります。

 老人虐待は幼児虐待より、ある意味、目立たず、深刻で、老人の方が知能発達している分、苦痛も大きそうな気がするのですが。

 天網恢々疎にして漏らさず、因果応報 かも知れませんが、数十年後のことなど、誰も予測して行動しませんよね。でも、現実はシビアです。
  
 子が親に甘えるのは、子が親の行為を許しているのではなく、その子なりの本能として生き抜くためだけに環境順応しているにすぎません。これを間違えると、数十年後に、因果応報的に虐待被害者になるかも知れません。

 ぞっとしましたか。


 虐待に悩む親側の立場で、このホームページに行き着いた方へ

 子どもに愛情を持てずつい子にあたってしまう親ももちろんいます。
 わたしが、一番心に残っているエピソードを紹介します。
 その子の父親は、ささいな口実で子を日常的に殴っていたのですが、その子は後に、お父さんの思い出を聞かれた際に「(よく殴られたけど、良い思い出が全くないわけではない。)お父さんは、朝自動販売機でジュースをおごってくれた(から、いいところもあった)。」と言っていました。
 経済状況その他で、いろいろ難しい局面がありますが、この発言をさせる環境はどうなのという問題点はもちろんあり、文句の付けどころは山のようにあります。ただ、その子なりに、親と一緒に行動し、自分のために、ちょっとした気遣いをしてくれたということが、それでも、その子の記憶にきちんとインプットされる「良い思い出」になったのです。
 必要なのは、大げさなことではなく、日常生活で、子どもと一緒に何か作業をし、その際に、子どものためにちょっとした気遣いをすること、それらの積み重ねこそが、望ましい親子関係の構築につながるのだと、考えます。

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